2020/09/17 南青山散歩 02 善光寺/青山児童館/青山師範学校の碑/船光稲荷神社/青山生涯学習館/斉藤茂吉歌碑/中村草田男句碑

表参道駅をぐるっと一回りした後は広い道路(赤坂杉並線)を南東へ進む。
途中から路地に入って南へ進む。



善光寺


高野長英石碑

 先生は岩手県水沢に生れ長崎でオランダ語と医学をおさめ西洋の科学と文化の進歩しておることを知り発奮してこれらの学術を我国に早く広めようと貧苦の中に学徳を積んだ開国の先覚者である 
 その間に多くの門人を教え又訳書や著書八十余を作ったが「夢物語」で幕府の疑いを受け遂に禁獄の身となり四十七才で不幸な最後をとげた 最後の処は今の青山南町六丁目四三の隠れ家で遺体の行方もわからなかったが明治参壱年先生に正四位が贈られたので同郷人等が発起してこの寺に勝海舟の文の碑を建てた処昭和戦災で大部分こわれた
 よってここに残った元の碑の一部を保存し再建する


wiki調べ。
『高野 長英(たかの ちょうえい、文化元年5月5日(1804年6月12日) - 嘉永3年10月30日(1850年12月3日))は、江戸時代後期の医者・蘭学者。通称は悦三郎、諱は譲(ゆずる)。号は瑞皐(ずいこう)。実父は後藤実慶。養父は叔父・高野玄斎。江戸幕府異国船打払令を批判し開国を説くが、弾圧を受け死去した。1898年(明治31年)7月4日)、その功績により正四位を追贈された。主著に『戊戌夢物語』『わすれがたみ』『三兵答古知機』など。また、オランダ語文献の翻訳作業も多く行っている。 』
高野長英 - Wikipedia


陸軍経理学校生徒隊慰霊碑

陸軍経理学校
『陸軍経理学校(りくぐんけいりがっこう)は日本陸軍軍学校のひとつである。主として陸軍における経理を担当する軍人の養成教育あるいは上級教育をするとともに、陸軍経理に関する調査と研究、また図書の出版も行った。陸軍経理とは会計だけに限らず、監査、被服、糧秣、建築も職務に含まれる。1886年明治19年)8月に設立された陸軍軍吏学舎を前身とし、1890年(明治23年)11月に陸軍経理学校が開校された。』
陸軍経理学校 - Wikipedia


石塔・石碑


地蔵堂


山門








◆青山児童館



54年かあ。
いろんな歴史があっただろうね。








◆青山師範学校の碑

 明治丗三年 我等の母校が此の地に建てられ大正を経て昭和十一年(1936)に至る丗六年の間、正大とまじめの校風のもとに師範学校および附属小学校から多くの人材を輩出した。
 母校は世田谷に移りなつかしい旧校舎は、やがて戦災を受け灰儘に帰して昔をしのぶ何物もなく、年とともに感慨に堪えない。
 学制頒布をみて百年 今や記念碑建設の念願がかない我等の喜びを後世に伝える。 



すぐ隣に国旗掲揚台があった。



碑の後ろは上記の青山児童館。








◆船光稲荷神社









◆青山生涯学習

港区の施設。
図書室や学習室があるね。
港区公式ホームページ/青山生涯学習館








斉藤茂吉歌碑

この場所には養父が建てた病院があり、茂吉は空襲で病院と家が全焼した昭和20(1945)年まで、病院経営と短歌創作に打ち込んだ。
参考
港区公式ホームページ/文豪の風景in港区04 齋藤茂吉



あかあかと 一本の道 通りたリ 霊剋(たまきわ)るわが命なりけり



こちらは何が書いてあるのかわからない。
WEBで調べても調べ方が足りないのか出てこない。
こういうイタズラはやめましょう!







中村草田男句碑

こちらは小学校の柵の内側にあるみたいで、見つからなかった。


wikiで調べた。
『中村 草田男(なかむら くさたお、1901年(明治34年)7月24日 - 1983年(昭和58年)8月5日)は、中国アモイ出身の俳人。本名清一郎(せいいちろう)。東京帝国大学国文科卒。高浜虚子に師事、「ホトトギス」で客観写生を学びつつ、ニーチェなどの西洋思想から影響を受け、生活や人間性に根ざした句を模索。石田波郷加藤楸邨らとともに人間探求派と呼ばれた。「萬緑」を創刊・主宰。戦後は第二芸術論争をはじめとして様々な俳句論争で主導的な役割をもった。忌日は「草田男忌」として季語。 』
中村草田男 - Wikipedia





続く。