2020/09/22 赤坂散歩 04 円通寺坂/一行山弘願院寺旧跡之碑/円通寺/銀杏ヶ丘(近衛歩兵第三聯隊)/広島藩浅野家中屋敷跡/三分坂

TBSの西側を散策。
三分坂はかなり急坂だった。



円通寺

阪上。



坂下。



元禄八年(1695)に付近から坂上南側に移転した寺院の名称をとった。それ以前に同名の別寺があったともいう。






◆一行山弘願院寺旧跡之碑

 品川区にある専修寺は、永禄二年(1559)曇譽上人により、青山の勢至堂を改築して開山、山院号を本山増上寺より賜う。二世誠譽上人の天正十九年(1591)家康公により、赤坂堀端に家臣の菩提寺として移転。中興五世單譽上人(増上寺十八世定譽上人の直弟)の寛永二年(1625)赤坂碑と次一ツ木に代地を賜り、赤坂・専修寺として永年法灯を護寺するも、二十四世進譽上人の明治四十年(1907)近衛歩兵第3連隊拡張の軍令により割譲止むなく桐ヶ谷の地に堂宇、墓碑(1573基)を移築す。ここに歴代住職・檀信徒の佛縁を記念して當地に碑を建立す。



上記、円通寺坂途中にあった。






円通寺


鐘楼

時刻を知らせた「時の鐘」といわれるのはコチラで良いのかな?
時の鐘とは江戸に時刻を伝えた鐘のこと。






◆銀杏ヶ丘(近衛歩兵第三聯隊)




記念碑に添えて
 近衛歩兵第三聯隊は、明治十八年七月三日霞ヶ関に創設され、十月二十七日軍旗を拝受した。明治二十四年五月、周縁を桜に囲まれ赤煉瓦三階建兵舎二棟が立つ、赤坂台上の新兵営に移転した。全国から選ばれた近衛兵達は、この兵営で49年間、練武に励み、禁闕守衛の大任を果たし、日清・日露の両役に出征して偉勲を樹てた。又、支那事変以降は昭和十五年六月出征、中国の広西・広東両省南部仏印シンガポール、北部スマトラアンダマン・ニコバル諸島方面に転戦し、この間、補充隊は檜町兵営に移転して業務を遂行したが、昭和二十年八月の終戦により、本体はスマトラに於いて軍旗を奉焼し、補充隊とともに60年の歴史を閉じた。
 昭和三十七年秋、赤坂兵営のシンボル銀杏ヶ丘に、聯隊跡記念碑を建てたが、土地開発の進展に伴い、三菱地所のご厚意により、老銀杏とともに、ここに移され安置された。







広島藩浅野家中屋敷

google mapのマークはこのビル(赤坂パークビル)の写真の位置辺り。
ビルの敷地を含めてだいぶ広い敷地があったようなので、古地図で調べてみた。



ものすごく広いね!
これじゃあ、敷地内を移動するのも大変だ。






三分坂

坂下。
坂は突き当りを右に曲がっている。



阪上。



急坂のため通る車賃を銀三分(さんぶん、百円余)増したためという。坂下の渡し賃一分に対していったとの説もある。さんぶでは四分の三両になるので誤り。







続く。