2020/09/26 赤坂散歩 02 檜坂/旧町名由来板/檜町公園/シリア・アラブ共和国大使館/勝海舟邸跡/本氷川坂

志賀直哉旧居跡から細い路地を北東へ進む。



◆檜坂

坂上



坂下。



江戸時代には、檜の木が多いため檜屋敷と呼ばれた山口藩毛利邸(檜町公園)に沿う坂であった。






◆旧町名由来板

赤坂檜町(あかさかひのきちょう)
 古くは今井村のうちでしたが、寛永(1624年〜1644年)以後、萩(萇网)藩毛利家、松江藩松平家、山家藩(やまかはん)谷家(そうけ)の屋敷地となり、幕末まで大きな変化はありませんでした。「萩藩毛利家屋敷は元治元年(1864年)、幕府と萩藩とが対立したため、召し上げとなっています。町の北部に麻布今井町年賀町屋がありました。これはかつての今井村の百姓家に由来すると思われ、承応3年(1654年)頃にはこの町屋が今井本村と呼ばれ、中心的な位置をしめていたようです。
 明治5年(1872年)、麻布今井町年質町屋と武家地を合併して、「赤坂檜町」となりました。町名は毛利家邸内に檜が多く、槍屋敗と呼ばれていたことに由来します。
 明治になって、町内の南東部三分の二は陸軍省用地となり東京鎮台歩兵営がおかれ、後に歩兵第一連隊となりました。
 西部は明治20年(1887年)頃は、空き地や畑だったようで、明治末頃までには大部分が住宅地となり、北東隅には、わずかに商店がありました。
 戦後は、歩兵第一連隊が進駐軍に接取されハーディバラックスという兵含となりました。昭和37年、アメリカから敷地が返還され、跡地には平成12年まで防衛庁が置かれていました。







檜町公園

後ろの建物はミッドタウン。






夏みかんと椿について(萩市より寄贈)
 当地(防衛庁跡地及び槍町公園)は、江戸時代200年にわたって萩藩毛利家の下屋敷となっていました。萩藩の場合、寛永9年(1632年)の時点で、
桜田上屋敷愛宕下に中屋敷(現港区新橋四丁目)がありましたが、藩主もこの麻布下屋敷に居住していることが多く、この屋敷は、毛利家の当主の中心的な生活の場になっていました。
 今回の槍町公園の再整備にあたっては、整備方針のひとつに「歴史性の活用」があげられていたことから、当地と歴史的に関係の深い萩市より、萩を代表する樹木である夏みかんと椿の寄贈を受け、歴史性のシンボルとして本公園内に植樹し、土地の記憶として引き継いでいくこととしました。

夏みかん(萩市 市の果樹)
 夏みかんは明治のはじめ、全国で初めて萩で栽培され、20年〜30年後には当時の萩町の年間予算の約8倍もの生産額をほこり、重要な産業に成長した。まさに「黄金の実」となり、昭和40年代(1965〜1974)のなかばごろまで萩の経済をささえていた。昭和40年代の終わりごろからは需要の減少と価格の暴落により、栽培面積・収穫量ともに、年々減り続けた。しかし、今日もなお市内のあちこちに植えられ、萩の街の景観をいろどっている。
 毎年5月中旬には旧田中別邸のかんきつ公園において「萩・夏みかんまつり」が開催される。

椿(萩市市の花)
 本州から九州の海岸や近くの山地にはえる、代表的な温帯の常緑広葉樹の一つである。
 萩市笠山の虎ヶ崎周辺に広がる椿の群生林には、60余種・約25,000本のヤブツバキがうっそうと繁っており、市の天然記念物に指定されている。また、毎年2月下旬から1ヶ月間の開花期には萩・椿まつりが開催される。また、川上椿瀬(かわかみつばせ)の椿も市の天然記念物に指定
されている。
 なお、萩市の地名の由来としてツバキがつまってハギになったとの説がある。



公園附近浴革案内
 この公園附近は、江戸時代萩(長州)藩毛利家の屋敷であった。敷地の総坪数は約36080坪(約12ha(寛永十三年の拝領分は約272713坪余)であり、今の赤坂九丁目一・二及び七番先の地域である。その庭は「清水亭」とよばれ、当時の名園の一つであった。また、邸内に檜の木が多かったことから「槍屋敷」と俗称されていた。かつての檜町という地名もここに由来している。
 その後、明治四年(1871年)に国の管理地となり、明治七年(1874年)一時東京鎮台歩兵第一連隊第二・第三大隊がここにおかれ、明治十七年(1884年)各地に分屯していた第一師団歩兵第一連隊各大隊がこの地へ結集し、第二次世界大戦終戦までその駐屯地となった。
 戦後一時米軍に接収され防衛庁の設置ののち、この部分は昭和三十八年1963年)七月都立公園として開園し、昭和四十年(1965年)四月に東京都から移管を受け、その後港区で管理している。
 その後、平成十五年に住民参加による基本計画づくりが行われ、平成十九年三月に再整備工事が完了した。

 毛利家下屋敷の東半分は、池を中心とした広大な庭園であった。この庭園は立派なもので、いつしか評判になっていた。
 第八代将軍吉宗の小姓を務めた磯野政武は、この評判を聞き、いつか訪ねたいと思っており、安永初年(1772年ごろ)の秋、当時の藩主毛利重就に願って招待されることになった。このときのことを書いた『清水亭の記』という随筆が残されており(山口県文書館所蔵)、往時の様子を伺うことのできる資料として、現代語訳されたものを左記に掲載した。

清水亭の記
 江戸域の南西にあたる麻布というところに、長門の太守(毛利重就)の別館がある。かねてから名聞として評判のあるところだったので(拝見をお願いしていたところ、神無月(十月)の五日、子の政共とともにお出くださいと(招待があった)。新見出雲守正恒も、以前から希望しており、この別館に参ることがあれば一度拝見したいとのことを切に言ったこともあるが、そういう機会があればと言いながら年月を経ていたので、このたぴ内々に問い合わせたところ、そのまま侍従の君(毛利重就)に観ってもらえ「新見正恒も伴ってよい」と伝えられたので、今朝まず正恒の家へ行き、それから一緒に歩きながら、門(虎の門)の橋を過きたあたりから、政武が先に立ち、赤坂の一つ木という所の菩提寺へ立ち寄り、しばらく休憩した。
 ここで正恒と待ち合わせ、野遊びのように連れ立って行くと、あちらこちらにやや色づいた紅業が見える。道の途中、ようやく四。五町約436m〜約545m)ばかり歩いたと思うと、かの館の木立が問近く見え、前もってここからと聞いていた南に向いた門に入る。案内の人がいるので行くと、そこには知った顔の出迎えがあり、なおも随って行き、まず得一率という建物に到着し
た。
「今朝ほどは曇っていたので、あいにくのことと思っていた空も、たいへん気持ちよく晴れて」と語り合い、彼方を見ると、何本もの木々の紅葉が濃薄を交えて、本当に梢の錦を重ねている。また、こちらには遣かに見下ろす池の水面がたいへん清らかで、鳥があってみどりの木立の中に、朱の鳥居が立っているここにも一本、よく色づいた紅葉があり、色を競っている。鳥に渡る板の橋も見える。池のほとりや軒端に近い糸桜(しだれ桜)の古木(の葉)が散り残り、これも紅葉しているものは時々池に落ちる。今日は風がないので、散木の葉がさも静かに、蝶の飛ぶようにひらめいて、水に落ちるのにしばしの間があるなど、たいへん趣がある。池より左の方には、年月を経た常緑樹がたくさん枝を交え、見飽きるばかりの木の間に、かわらの軒端、石の塔なども見えて風情がある。
 池の向いには、あし引きの山が造られている。山のうしろの木立の向こうにことに繋った山を「どこですか」と問えば、山王の御社(山王日枝神社)とのことだった。それに続く小高い遠近の木々の緑と紅に黄葉をも交えたところにかすかに家屋もみえるのだが、今日は暖かで山裾が少し霞がかかる様子が、まるで限取りをしたようである。
 あれこれながめていると、待従の君がお出になり、本日のお招きへの感謝と、つもる話などを述べていると、やがて「庭のなかをお見せしましょう」とおっしゃり、待従の君が先に歩いていかれるのに随い右の方を下っていくと、かの梢が錦を重ねた楓の木のもとをすぎる。
 船などをつないだ岸根を行き、橋を渡ろうとすると、傍らの石に文字を彫ったものがある。たいへん古く、見分けられないのを訪ねると「鳥鵲橋」とおっしゃる。また、橋のもとに生えている糸桜の校が年を経て、板の橋の左右の水に糸をひたすばかりなのもたいへん風情がある。
 島の祠に詣でて立ち帰り、池の向こうに行けば、馬場があって、見物席もしゃれた様子で、また、わきに佬びた炉などが見えるのも、工夫されたことであった。馬場の南側は、人々が褒め称える檜の並木が屏風をたてたようで、その木陰にも植垣があるが、二簡所ばかり植えていない場所がある。騎射の道具をかける所だろうか。植垣の様子がまるで埒(馬場の周囲の柵)のようであるのも心得てした事と見え、また池の方にのぞめば、ひとつに見えた重なった島が二つに分かれて、なお池を左に見ながら行けば、洲崎のようなところに、たいへん大きく見上げるばかりの石灯能が据えてある。世の常の石とも見えず苔むしているのが、このようなところだからこそ似つかわしいとながめる。
 それからかの足ひきの山と見えたのを登れば、木立の向こうの眺望が手に取るばかりだった。ここを下りて木陰を行く。また、すこし登っているように感じて行くと、木立の中に稲荷の祠があり、おどろく程の装いで飾りつけられている。
 「そもそもこの祠が古くからの鎮護の社で、近年、この館の問近に丙丁童子災の起こった時っこのように年を経た木々が茂る中でどうしたことかこの祠のみ煙となって、館にはいささかの災いもなかった。まことの奇譚であろう」と待従の君のおっしゃるのも、たいへん忝(かたじけ)ないことと、額ずいて(参拝し)あたりを見ると、古い木々の枝のおもてに見える方が焼けているものが少なくなく、「本当に尊いことだ」と言い合いながら山路を行くと、観世音を祀ってある堂があり、跪いて伏し拝み、また山路を下れば、池を向いにかの亭の山を見上げつつ、もとの座に帰った。
(中略)
 今度は、左の方の侘びた門を過ぎていく。そちらに、なお一際に囲った内側に、長く続いて菊を植えわたしたのが三列ほど雨露をおおう様子、前には緑の竹を渡し、中央に壇を設けて、飾り付けた数々の菊の花は、甲乙つけがたいすばらしさである。さまざまに色分けしているのもたいへん美しい。これを植えた人の心遣いも思いやられる。飾りつけたものの他にもたくさん見えて、香りが深い。ここを後にする時にも、なお菊に心を残して過ぎゆくと、実尚殿の「これをごらんなさい」といわれるままに、かの壇を設けたところを振り返ると、侍従の君が筆を染めた短冊をむすびつけなさる。
    いたつらに 移ろふ菊の 花をけふ
          きたり訪来し人の みるぞ嬉しき
とりあえずの返しのこころばかりを、置いてある筆で後にある紙に書き付けて、実尚殿に渡す。
    とひきつゝ みるそ嬉しき 菊にさへ
          只いたつらの 心かもなし
もう少しいたいと思ったけれども、日暮れも近いのでここを出る。またかなたへと立ち入れば、雨が降った時は、木の緑がうるはしい中にも、幾年か代々年を重ねて色がかわらない松と横とがさらに繋っていく。此の館の主人二方を賀し申し上げると心の内で思いながら、通勝殿の案内で、前の草戸を押し開いたまま、あちらこちらをみると、常に使わないところも非常にきれいに掃除されている。たぶん待従の君がお待ちなさっているだろうと、いそいでその場を後にすると、思った通り立ち休んで居られた。
 後に従ってまたそこから垣根に続いた小さい門を過きて、木々が深く生い茂る除をずっと歩いて行く。まるで深い山道のようで、古い木の根も歩みの助けとなるつづら折りの暗い道を登り下ってはるかにいくと、かわらの軒端をつくりなした様子も変わり、もの静かに囲った門に入れば、法師(僧侶)の出迎えがあって、侍従の君へ謁する。
(中略)
 ついには日も暮れた。やがて待従の君がお立ちになり、またあの碑の前を通りながら拝札し、階段を下り、門を出てなお奥深く行けば、管神の社(天神社)が疎かでなく年月を過ごしている様子はたいへん興趣が深く、それに参拝して戻る。左の方に自然な背の石の碑がある。松明の火の明かりで見れば、真字である。こまかく彫ってあり、この社のことが書かれているようだったが、夜のことで老眼でもあり確かではない。この道の行き止まりには幕が張ってある。
 ここからもと来た道を立ち帰ったように思えたが、本当に山道の日暮れ、木こり歌や牧の笛の音こそ聞こえないが、どこからの道か様子が変わって見える道を行く。山際の傍らに、自然の柱を四つの角に立てて、床はないが中に八角ばかりの台をすえ、休息の場所を儲けてある。これも松明の火で見ると「仙遊亭」という額があり、その文字の意味も風景にふさわしいと(思い)向かいを見やると、ここかしこの灯龍の火影が、夕月の光とともに池に映っている。
 「商山の月、落秋髪白し」と独り言を言い、随っていくと池の辺りに出たここの山際に石で囲っている場所がある。これこそこの池の源で、清水が絶えることがない。今年の夏の日照りにも、この池だけは乾かなかったと言われているので、この庭を「清水」と言うとのことだった。
 ここを過ぎると、これも右手の山すそより自然の石を組み上げた所がある。昔は滝が糸のように流れていたが、いまは絶えていると通勝殿が語られる。ここより「得一亭」の灯火を見上げれば、星のように見え、夕月が雲間にほのめくのも、他の水が近く手に取るばかりに見える景色で、またたいへん静かである。
 「得一亭」に帰れば、侍従の君がお入りになっている。実尚殿がおっしゃるには、菊を詠む当座和歌には遅れた(味めなかったので、頭字のくじだけを引いて、それぞれ後日に詠んで進じましょうと言う。
 やがてまた餐応の宴が三度、四度と引き変わりどにかく深く心をつくされたのはいちいち筆に記し難い。誰彼となくお酒を動め、酌み交わし、盃の数は重ねたがもとよりお礼の心は示しきれないことなのでごのまま辞去したのでは興のないことだと人々が思うだろうと心憂く思う。
 宴が果てて、また待従の君がお出になる。みな今日のありがたい餐応を、ひとかたでなくかたじけないことと平伏すると、長門周防の産なる物ということで、おのおのにお土産を賜う。なお重ね重ねかたじけないと礼を述べたが、言業には限りがあって(意を尽くすことができない)、それぞれに札を申し上げて、館の門を立ち出たのは、戌の刻(午後十時頃)になっていた。連れだって帰る道々、たいへんかたじけないことだと、身分の低い者までも浅からぬ恵みのあったことを語らい、あれこれと今日あったことを語りながら歩いていると、ほとんど時間を感じないうちに新見正恒の家に着いた。
「も」の字をかしらに菊を  重就朝臣
   百とせの 秋をかぞえて 
        菊の花 色がかわらぬ 友と契らん

原文には改行がないが、内容により適宜改行した。

※誤字脱字はかなり多いはずです。ご指摘ください。(筆者)



東京歩兵第一聯隊跡






シリア・アラブ共和国大使館



シリア・アラブ共和国(シリア・アラブきょうわこく、アラビア語: الجمهوريّة العربيّة السّوريّة)、通称シリアは、中東のレバントに位置する共和制国家。北にトルコ、東にイラク、南にヨルダン、西にレバノン、南西にイスラエルと国境を接し、北西は東地中海に面する。首都はダマスカス[2]。「シリア」という言葉は、国境を持つ国家ではなく、周辺のレバノンパレスチナを含めた地域(歴史的シリア、大シリア、ローマ帝国のシリア属州)を指すこともある。 』
シリア - Wikipedia






勝海舟邸跡



勝海舟邸跡の記
港区赤坂6丁目10番39号の「ソフトタウン赤坂」が建つこの地は、幕末から明治にかけて、幕臣として活躍した勝海舟安政6年(1859)から明治元年(1868)まで住んだ旧跡である。
 海舟は終生赤坂の地を愛し、三カ所に住んだが、当初居住中の10年間が最も華々しく活躍した時期に当たる。
 海舟は号で、名は義邦。通称麟太郎、安房守であったから安房と称し、後に安芳と改めた。夫人は民子。
 海舟は文政六年(1823)、本所亀沢町の旗本屋敷=現墨田区両国4丁目の両国公園の地=で、貧しい御家人の子として出生。長じて赤坂溜池の筑前黒田藩邸=のちの福吉町、現赤坂2丁目の赤坂ツインタワービルや衆議院赤坂議員宿舎などの地=に通って蘭学を学び、その縁から新婚23歳で赤坂田町中通り=現赤坂3丁目13番2号のみすじ通り=の借家で所帯を持った。
 36歳からは赤坂本氷川坂下=もとひかわざかした、のちの氷川町=のこの地に住んだ。
 明治元年45歳で、引退の徳川慶喜に従って、ここから静岡市に移ったが、明治五年(1872)再び上京し、満76歳で亡くなるまで赤坂区氷川町4番地=現赤坂6丁目6番14号=に住み、参議・海軍卿、枢密顧問官、伯爵として顕官の生活を送り、傍ら氷川清話などを遺した。この時の屋敷跡は東京市に寄付され、平成五年(1993)春まで区立氷川小学校敷地として使われた。
 当所に住み始めた翌年の安政七年(1860)、幕府海軍の軍艦頭取=咸臨丸 艦長として、上司の軍艦奉行木村攝津守、その従僕福沢諭吉らを乗せ、正使の外国奉行新見豊前守を乗せた米艦ポーハタン号に先行して渡航、日本の艦船として初めて太平洋横断・往復に成功した。
文久二年(1862)十一月、海舟を刺殺しようとして訪れた旧土佐藩坂本龍馬らに、世界情勢を説いて決意を変えさせ、逆に熱心な門下生に育てて、明治維新への流れに重要な転機を与えることになったのもこの場所である。
 明治元年三月には、幕府陸軍総裁として、官軍の江戸城総攻撃を前に征討総督府参謀西郷隆盛 と談判を重ね、無血開城を決めて江戸の町を戦火から救った。
 第1回会談は高輪の薩摩藩邸=品川駅前の、のちの高輪南町、現港区高輪3丁目のホテルパシフィックの地=で行われた。第2回については芝田町薩摩藩邸=のち三田四国町、現港区芝5丁目芝税務署辺りの地=または、三田海岸の薩摩藩蔵屋敷(くらやしき=倉庫)の表側にある民家=現港区芝5丁目の三菱自動車ビル周辺=で行われたとの両説がある。いずれも当所居住中のことである。
 明治維新では、明治元年五月、海舟の留守中に一部の官軍兵士がここの勝邸に乱入したが、海舟の妹で佐久間象山未亡人の瑞枝(旧名・順)が家人を励まして一歩も引かずに応対し、危急を救った。
 海舟は終生赤坂の地を愛したが、郊外の風光にも惹かれ、初めは葛飾区東四ツ木1丁目に、次いで洗足池畔の大田区南千束1丁目現大田区立大森第六中学校の地に別邸を設けた。墓は洗足池に面して作られ、自ら建てた西郷隆盛を偲ぶ碑と共に大田区文化財に指定されている。






◆本氷川坂

坂下。



坂上



 坂途中の東側に本氷川神社があって坂の名になった。社は明治十六年四月、氷川神社に合祀された。元氷川坂とも書いた。









続く。