2020/10/12 増上寺散歩 02 福沢・近藤両翁学塾跡/神明小学校跡地/赤穂藩森家上屋敷跡出土の石垣石/芝神明町町屋敷跡遺跡/UHA味覚糖東京本社/北口横断歩道

まだ山手線沿いに南下し浜松町駅まで歩く。



◆福沢・近藤両翁学塾跡



 この地は1868年から1871年まで慶応義塾の在った処である。
福沢諭吉は築地鉄砲洲に在った家塾をここに移し、新たに塾舎を建て時の年号に因んでこれを慶応義塾と称した。あたかも明治維新の変乱に際し国中また文事を顧みる者のなかった時、この塾に集まった福沢以下の少壮学徒は、自から信ずる文明の主義に據って学問の独立を護り、わが国文運の命脈を一日も絶やすことかなかった。
 1871年慶応義塾跡を譲り受けた攻玉社は築地一橋邸跡から越して来て1925年西大崎に移るまでこの地で学校を経営した。創立者近藤真琴は和魂漢洋才、質実剛健、礼譲を重んじ誠意を旨とするを理想とし、中壮年部では英漢数の三科を主として海軍兵学校入学志願者を養成し、又他の上級学校進学希望者の為に歴史、地理、物理、化学等の諸科をも教授し後之を中学校に改めた。更に1879年創設した陸地測量習練所は後量地黌ー土木科ー工学校及び高等工学校と改称し土木工学の基を開いた。この外幼年部、女子部、商船黌 、専修数学科も或る期間設けられていた。








◆神明小学校跡地




この建物の反対側にも遺構等があった。


芝地区旧町名由来板

神明町(しんめいちょう)
 東は東海道線に接し、西は宮本町と三島町の一部に面し、南は浜松町一丁目に、北は宇田川町に臨む町域です。町名は、飯倉神明宮(いいぐらしんめいぐう)(現在の芝大神宮)の鳥居前にあったことに由来しますが、飯倉神明の社殿のある所ではありません。明治五年(1872)、 森忠儀の屋敷を合併しました。

銭座町(しんせんざちょう)
 寛永十五年(1638)、古来より網代場(あじろば)であったこの地を鳴海兵庫が新銭鋳造(しんせんちゅうぞう)の場所として拝借し、寛永通宝を鋳造していました。貞享三年(1686) 、 その跡地を能役者観世新九郎が拝領し、 その後しだいに町屋となって、 銭座の跡地であったことから町名になったと思われます。 江戸時代には俗に、 浜松町付近までを広く新銭座と呼んでいました。「芝」と冠称したのは本所、 深川にも新銭座があったためです。

宇田川町(うだがわちょう)
 宇田川町は柴井町と神明町との間に位置し、宇田川が市街を南北に二分していました。宇田川は桜川下流の別名であり、海へ注いでいた細流でしたが、今は埋め立てられています。町名の由来については、むかし、上杉修理太夫朝興(うえすぎしゅうりだいぶともおき)の家臣宇田川和泉守(うだがわいずみのかみ)の領地であり、天正年間(1573~1592) の後、 その子孫宇田川喜兵衛がここに住み、名主であったことから、町の名としたと伝えられています。

宇田川横町(うだがわよこちょう)
 町は四角形をした小市街であり、その町域は芝区の中で最も狭小でした。江戸時代、俗に大横町(おおよこちょう)と称し、宇宙川町続きの横町であるのことから宇多川横町と呼ぶに至ったようです。もとは宇田川町の一部でしたが、寛文四年(1664) 以降に独立の町として分離したものと推測されます。

三島町(みしまちょう)
 慶長三年(1598) に増上寺がこの地に移転したとき、 境内、 門門前地ともに当寺の拝領地となりました。 寛永の頃 (1624~1644) まで武家地であり、鍋島信濃守(なべしましなのかみ)、久留島越後守(くるしまえちごのかみ)、鍋島市之丞(なべしまいちのじょう)の三邸があったので三島町と名付けられたようです。 当時、 三邸地はいずれも増上寺地内に属していましたが、鍋島市之丞(いちのじょう)、久留島越後守の両屋敷の一部が三島町域となりました。









赤穂藩森家上屋敷跡出土の石垣石

 プラザ神明のあるこの地は江戸時代、播磨(はりま)国(現、兵庫県赤穂藩森家の上屋敷でした。
 北隣には旗本屋敷が構えられていましたが、赤穂藩はこの隣地の境に構築した堺堀の護岸として石垣を設けました。また、江戸湾側にも石垣を組み、護岸としました。
 石垣に用いられた石材の大半は安山岩で、積み直しが確認されたところもありましたが、江戸時代の構築当初の姿をよく留めています。
 ここに用いられている石垣石は、主に堺堀に使われていたものです。








◆芝神明町町屋敷跡遺跡




東京都港区浜松町一丁目、かつてこの辺りは旧東海道 -現在の第一京浜国道ー を挟み相対している芝大門一丁目とともに、「神明町」と呼ばれていた町人居住地でした。
昭和62年、この地が約330年振りに大きく再開発されるにあたり、神明町当時の町並の様子や、この地に住んでいた町人の暮しぶりを記録に留めておくために、地中に残されていた遺跡の発掘調査が実施されました。
発掘調査は約4か月におよび、排水用の木樋、地割に用いた石垣、長屋の基礎、井戸跡、土蔵造りの基礎などの遺構や、陶磁器、漆器などの生活用雑器、寛永通宝に代表される貨幣、釘やかすがいのような建築用材など、多種多様な実に多くの遺物が出土しました。
このたび、住友浜松町ビル建設用地の一角に石垣の一部が移設復元されました。ここに使用されている石は、いずれも遺跡で検出された石垣に用いられていた間知石です。
都市はある種の生物といえ、常に成長と変化を繰り返していますが、こうしたモニュメントが、この成長と変化が正しく記録されている証として、永く人々の脳裏の一隅に留められれば大きな喜びといえましょう。







UHA味覚糖東京本社

看板のキャラクターが懐かしい。
「味覚糖株式会社」が会社名。
非上場企業。
本社は大阪にある。

『味覚糖株式会社(みかくとう)は、大阪府大阪市中央区神崎町に本社を置く、主にキャンディを中心とする日本の製菓会社である。みどり会の会員企業であり三和グループに属している[1]。一般的にはグループ企業を含めて「UHA味覚糖」(ユーハみかくとう)の名で知られている。 』
味覚糖 - Wikipedia


三和グループ
UCC上島珈琲の時にも出てきた。
2020/10/06 芝公園散歩 11 横浜ゴム本社/UCC上島珈琲㈱東京本部/新橋塩釜神社/塩釜公園/東京日野自動車本社/住友金属鉱山㈱本社 - ovanの社会科見学







◆北口横断歩道

右脇の建物が世界貿易センタービル
右斜め前に浜松町駅



歩道橋から鉄道が良く見える。



今度は左側に世界貿易センタービル







続く。