2020/10/24 善福寺散歩 06 アイメイト発祥の地/稲荷神社/丸武桜井銘木店/竹下稲荷神社/善福寺/大和市神社

善福寺まで進んだ後は西にある善福寺公園へ向かう。



◆アイメイト発祥の地

 視覚障害者の自由な歩行手段としての「アイメイト(盲導犬)」の育成に、執念と生涯を賭けた「塩屋賢一」によって、我が国最初のアイメイト「チャンピイ」が、河相 冽氏のパートナーとして、1957年(昭和32年)8月に、この練馬区関町南2-22-7で誕生しました。以来、1996年10月末までに、この場所から巣立ったアイメイト使用者は、691名です。
 現在、アイメイトの育成は、練馬区関町北5-8-7の視覚障害者歩行訓練センターで、たゆみなく続けられ、多くの視覚障害者の自立の支えとなっています。







◆稲荷神社


石塔群









◆丸武桜井銘木店

レトロな建物♪
築年数などは調べられなかった。







◆竹下稲荷神社


青梅街道と稲荷神社

 青梅街道は、新宿から青梅を経て、甲府の東で甲州街道と合する道です。慶長十一年(1606)江戸城の大改修にあたって、青梅付近より産する石灰を江戸府内に搬入するために開かれたと伝えられています。
 石灰搬送などの産業道路としてばかりでなく、御嶽山の参詣や、甲州裏街道として、旅人が行き交う街道でもありました。
 この付近は江戸時代中頃に開発され、竹下新田と呼ばれていました。稲荷神社もその頃の創建と考えられ、「新編武蔵風土記稿」には村民持と記されています。大正二年(1913)以降は旧竹下新田の鎮守となりました。


池無弁財尊








◆善福寺



 当寺は、福寿山と号する曹洞宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来立像です。開創は詳かではありませんが、開山は御堂阿闍梨と伝えられ、中興開山は月山機法です。
 古くは、無量山福寿庵と称する浄土系の小庵でしたが、享和年間(1801~1804)以前(一説には宝永六年(1709)に観泉寺(今川2-16-1)持となっていたと考えられています。「善福寺」と改称したのは、昭和十七年(1942)のことです。
 本尊の阿弥陀如来像は鎌倉時代末期の作といわれ、流れるような衣文が美しい優雅な像です。その他、境内には浄土系寺院時代の歴代住職の墓石や、建武元年(1334年)銘板碑、享保十二年(1727)銘地蔵石造などがあります。
 文政十一年(1828)に成立した『新編武蔵風土記稿』には、「往古は善福寺・万福寺とて二ヶ寺ありしが、いつの頃か廃絶して今はその跡さえも知れず。・・・此善福寺の廃せしは、千年大に自身せしとき池水溢れいで、堂宇これが為に破壊に及びしが遂に再修に及ばず、其名空くただ池の称のみ残れりと。思うに、此時、寺をば何へか引移せしものならん」とあり、往古、池畔には「善福寺」という寺院があったとの記載がみられます。この「善福寺」と当寺との直接の関係については、明らかな資料はありませんが、小庵から引きついでいる机に「文化十二年・・・無量山善福寺福寿庵」とあるところから、「善福寺」という名が伝わっているものと思われます。


庚申塔








大和市(おおわし)神社



 大和市神社の御神体は剥製の大鷲です。
 この大鷲は、大正十四年(1925)秋、練馬区関町との境にあった一本松に留っているところを、散弾銃で撃たれたといわれています。大鷲は、弾が当たって松から落ちながらも向ってきたため、さらに撃たれて仕留められたそうです。
 鷲は、あまりの大きさであったことから、剥製として保存されました。翌十五年(1926)には、村中の人々が話し合い、この鷲を御神体とするお社を建ててまつり、大和市神社としました。
 地域や近郷の人々は、大和市神社の講をつくり、現在も、毎年十一月の酉の日に、井草八幡宮の神主を招いて祭礼が行われ、神社の前で熊手も売られています。
 以前は、お社のまわりが空いていたので、祭礼時はさまざまな屋台が出て、芝居や神楽なども行なわれました。とくに、芝居小屋が建つと、どこからこんなに集まったのかと思うほどの人で賑わったそうです。昔は娯楽が少なく、近郷近在の人たちにとっては、とても大きな楽しみだったのでしょう。
 大和市神社のほかに、大鷲の剥製を御神体とする区内のお社として、下井草1丁目の大鷲(おおとり)神社があります。







続く。