2020/10/28 光明院




 慈雲山光明院は、真言宗豊山派の寺院で通称「萩寺」と呼ばれ、荻窪という地名もその名に由来するといわれています。
 当寺蔵の「縁起石碑」によれば、和銅元年(708)行基作の仏像を背負った遊行中の僧が、この地を通りかかったところ急に仏像が重くなり、萩の草堂を作って仏像を安置したのが開創と伝えています。
 本尊の千手観音は南北朝期の作であり、また境内から本尊と同時代に作られたとみられる五輪塔や室町期の板碑などが出土しており、当寺の開創は南北朝にさかのぼるものと考えられます。
 今も寺の周辺に残る「四面堂」「堂前」の地名も、当寺の御堂に起源をもつといわれています。
 本尊の千手観音像は、俗に「荻窪の観音様」の名で近在の人々に親しまれ、大正時代までは本尊の写し観音が地域を巡業する行事が行われ、信仰を集めたといわれています。
 なお、嘉永三年(1850)再建された本堂は現在の位置よりも西南側にありましたが、明治二十一年(1888)甲武鉄道(現中央線)建設のため、現在地に移されました。


夜念仏結衆交名供養板碑/木造千手観音菩薩坐像/天和二年銘手水鉢

夜念仏結衆交名供養板碑
 室町時代の東国の民間習俗を伝える板碑は、宗教行事に伴って造立されたもので、念仏・夜念仏・月待などのものがあり、本板碑はその中でも早い時期に出現した夜念仏供養板碑の代表的なものです。碑面には、阿弥陀三尊種子と光明真言の月輪、三具足、そして文明三年(1471)十月十三日夜念仏供養逆修敬白の記銘と、結衆七人の名などが刻まれています。
 本板碑は、室町時代に杉並にも夜念仏信仰のあったことを示す貴重な資料です。

木造千手観音菩薩坐像
 本像は当寺の本尊で、十一面四十二臂、寄木造りの、像高78cmの像です。千手観音像では比較的少ない坐像の形をとっています。本来は、全体に漆を塗って金箔をおいた漆箔造りですが、永年の香煙が体を厚く覆って、くすんだ色になっています。
 化仏は頂上仏を中心に、左右の垂髻部に二面、地髪部に八面の十一体の小面を差し込んであります。像容は洗練された手法を示し、彫眼でやや伏目なお顔は端正です。本像は、区内には数少ない室町時代の作で、格調ある仏像として貴重です。

天和二年銘手水鉢
 手水鉢としては区内最古のとなる天和2年(1682)の銘を有し、江戸郊外では貴重とされる元禄年間(1688~1703)以前の石造物である。正面左右面には蓮華の意匠が厚く浮彫されており勢いよく力強い図柄は直線状の手水鉢の底部とともに江戸時代前期における石造物の特色を示す。銘文は「荻(ママ)窪村」の村名や願主、江戸木挽町の石工の名があり、左面にみられる「當寺朝善」は光明院住職と考えられる。この手水鉢は江戸時代前期の遺品として貴重であり上荻窪村の様子を物語る文化財としても重要である。


鐘楼