2020/11/05 関西旅行4日目 広島・呉散歩 08 広島城

広島城

近くで撮った写真にいいのが無かったので「軍馬之碑」で撮った写真で。


史跡 広島城

昭和28年3月国指定
史路指定地 本丸跡、二の丸跡、堀およびその周辺
別名  鯉城(りじょう)
形状 太田川河口の低温なデルタ上に築かれた大規様な輪郭式の平城
沿革 1589年(天正17年) 毛利輝元        築城工事に着工
   1591年(天正9年) 毛利輝元        入城
   1600年(慶長5年) 福島正則        入城
   1619年(元和元年) 浅野長晟(ながあきら)人城
   1871年(明治4年) 廃藩置県により本丸内にに広島県の没所が置かれる。
   1894年(明治27年) 日清戦争時本丸内に大本営が設けられる。
   1945年(昭和20年) 原爆により天守閣、太鼓櫓、表御門などすべて頑壊。
   1958年(昭和83年) 現在の天守閣再建。







「二の丸」表御門



 表御門は天正期末(16世紀末)頃の建造と推定され、昭和20年の原爆被爆による焼失までの約350年間存続していました。
 現在の表御門は、平成元年の広島城築城四百年を記念して復元に着手し、平成3年に完成したものです。
 この平成の復元では、昭和9年に当時の陸軍第五師団経理部が作成した実測図をもとに、発掘調査の成果や明治期から昭和期にかけての写真を総合的に検討して、焼失後も残存した表御門の礎石(柱下の石)上に、昔どおりの工法によって往時の姿をよみがえらせています。







「二の丸」説明板

 この石垣と建物に囲まれた二の丸は馬出しの機能をもつ郭(くるわ)で、全国の近世城郭の中では特異な配置であり、広島城の特徴とされています。  
 この郭は、毛利時代(十六世紀末)に築造されたもので、外側から内部は見えにくく、本丸からは内部が見える構造としており、防御機能を考慮したことがうかがえます。  
 郭内には、表御門、太鼓櫓など近世初期の建物が残っていましたが、原爆により倒壊、焼失しました。現在の建物は、築城四百年を契機に、江戸時代の姿に復元整備したものです。







「二の丸」平櫓(ひらやぐら)・多聞櫓(たもんやぐら)・太鼓櫓(たいこやぐら)




 平櫓、多聞櫓及び太鼓櫓の創建時期は、天正期末(16世紀末)頃と推定されています。このうち太鼓櫓は17世紀初期に改修されたものの、3棟とも江戸時代を通して、二の丸の馬出機能を確保する建物として存在していました。その後、平櫓及び多聞櫓西半分(平櫓側)は明治初期に取り壊され、残った太鼓櫓や多聞櫓東半分についても昭和20年8月6日の原爆被爆によって倒壊炎上しました。  
 この建物は、平成元年の広島城築城四百年を記念して、発掘調査や昭和初期に当時の陸軍築城本部が作成した実測数値、明治から昭和にかけての写真等をもとに、復元に着手し、平成6年8月に完成したものです。



櫓内部へ





二の丸の特徴

 天正17年(1589)、毛利元就の孫である毛利輝元によって、 広島城築城の 鍬初めが行われました。
 この二の丸は、他の城に比べると規模が小さいのが特徴で、 本来は馬出し(城内からの出撃の拠処点)としての機能を持っていたと思われます。
 二の丸の西面に開かれた表御門は階下が城門、 階上が渡櫓となっていました。これは「櫓門」と呼ばれるもので、 広島城の主要な城門はみなこの形式でした。階上の櫓部分の柱と長押(なげし)を白木をそのまま見せる「真壁造(しんかべづくり)」で、たいへん古風な外観でした。
 平櫓・多聞櫓・太鼓櫓とも外壁は黒い下見板張 (壁に横板を少しずつ重なり合うように取り付けたもの)でした。
 内部は梁をむき出しにし、 柱や長押も漆などを塗らずに、木の肌を出したままの質素な造りになっていました。
 新しいタイプの城は、 柱もすべて白漆喰で塗込める「総塗寵(そうぬりこめ)」であることが多いので、古風な様式であることがわかります。
 現在の二の丸は、毛利輝元が建てたころの様式を木造で復元したものです。




太鼓



 江戸時代には、ここ太鼓櫓の2階に時を告げる太鼓が置いてあり、朝夕太鼓を打ち鳴らして城門の開閉や藩士の登城の合図にしていました。たまに、太鼓の音が小さかったり、時刻を間違えたりして注意されることもあったようです。








中御門跡







護国神社








慰霊碑


中国軍管区司令部原爆慰霊碑について

 明治6年此処広島城内に広島第五鎮台が設置され、その後第五師団司令部となりました。爾来その隷下部隊は、萩の乱西南の役日清戦争日露戦争、北清事変、
シベリア出兵、など幾多の戦役に際し、常に我が国軍の一翼として活動しました。
 一連の日華事変、太平洋戦争において第五師団出兵後の広島では、留守第五師団司令部、広島師団司令部、広島師管区司令部、中国軍管区司令部と名称、組織、使
命はその都度変化しながらも多くの師団、旅団を編成して送り出し、 補充を行ってきましたが、昭和20年8月6日午前8時15分 原子爆弾の一閃により壊滅し、事実上の終局を迎えました。被爆当時中国軍管区司令部に勤務しておりました軍人軍属の死没者の数につきましては諸説があり定かではありませんが、この地で被爆した軍人軍属並びに学徒動員のさなかにこの地で被爆した旧比治山高等女学校関係者を中心に結成した「広島師友会」は、 以来、 盟友の慰霊碑の建設と慰霊式の開催を中心に活動してまいりました。
 每年8月6日午前8時より、この地におきまして比治山女子中学高等学校校の主催により原爆死没者の慰霊と共にニ度と戦争のない平和な社会の実現を目指す誓いの
場として追悼式が執り行われております。


中国軍管区司令部 防空作戦室 (爆心地から約700メートル)

広島城とその周辺には、多くの軍事施設(中国軍管区司令部など)があり、ここには半地下式の防空作戦室が設けられていた。ここでは、多くの軍人、軍属に混じって、学徒動員された比治山高等女学校の女学生たちも働いていた。
原爆で、市内の電信電話は破壊されたが、かろうじて残ったここの軍事専用電話を使って、女学生が広島の壊滅を通信した。これが、広島の原爆被災の第一報と言われている。







広島大本営





 明治27年(1894)8月に日清両国に戦端が開かれたのち、それまでに山陽鉄道か開通していたことや宇品港を擁するといった諸条件により、同年9月広島市大本営が移されることとなり、広島城内にあった第五師団司令部の建物が明治天皇の行在所(あんざいしょ)とされ、ここに大本営が設けられた。
 明治天皇の広島滞在は、同年9月15日から翌年の4月27日までの7か月あまりに及んだ。その後、建物は広島大本営跡として保存でれたが、原爆により倒壊し、今は基礎石のみ残されている。







城内へ

城内にはたくさん展示物があったが、撮影不可だった。


天主閣からの眺め

ドームっぽい建物(県立総合体育館「グリーンアリーナ」)の後ろに見えるのは山ではなくて「宮島」。


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天主閣外観

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広島城遊覧船



乗り場の近くにあった碑

中国軍管区司令部.・第59軍司令部跡ほか(心地から約 400~1,300 メートル)
本土決戦に備え、1945 (昭和20)年6月には広島城本丸に中国軍管区司令部 、 第59軍可令部が置かれ、広島城内堀の外周には、 隷下の補充隊や師団可令部などが存在していた。 各部隊の建物は1945 (昭和20) 年8月6日午前8時15分、 原爆の爆風により瞬時に崩壊し、 火災に包まれて灰嬉に帰した。







基町地区再開発事業完成記念碑







広島城の暗きょ跡





この石組はかつて内堀と外堀とを結んた暗きょの遺構の一部で、堀の水量の調節を行った水路と考えられます。
昭和57年9月、この地下道建設工事中に発見されたものです。







広島城のHPはコチラ↓
広島城ホームページ


場所はコチラ↓


休館日
『年末(12月29日~ 31日) ※臨時休館あり』
とありましたが、行かれる方は事前にHPなどでチェックしてから行ってくださいネ!









続く。