2020/11/05 関西旅行4日目 広島・呉散歩 10 瀬尾弘吉先生像/広島市中央公園噴水/渝華園/大田洋子文学碑/空鞘橋/オブジェ/輜重兵第五聯隊・隊跡 馬碑

広島城西側の広島市中央公園を散策。
その後南下する。



◆瀬尾弘吉先生像

説明板などは見当たらなかった。
WEBで探しても信頼できる情報源が無かった。




ここから見た広島城







広島市中央公園噴水







◆渝華(ゆか)園



 この庭園は、中国四川省重慶市との友好都市提携五周年(1991年)の記念事業として、重慶市から贈られた設計書に基づき、広島市が建設したもので、中国の伝統的造園理論と手法を生かし、四川庭園の特徴を取り入れた古典的庭園です。
 「渝華園」の渝とは重慶市の古称であり、華とは華美を意味します。
 面積は、約千七百平方メートルで、周囲に透かし彫りを施した塀を巡らし、園内には回廊・あずまや・門などの伝統的建物と池・樹木・石組などがそれぞれの趣を醸し出し、四季を通じて景色を楽しみなから、庭園内を回遊できるようになっています。
 庭園の出入り口のある東側は、大小三つの門と中庭を配し、西側は、山水庭園区として池(洗秋池)を中心にあずまや(流香榭及び罨秀亭)・回廊(澹碧廊)で構成されており、これらの施設は庭園の中心的景観を成しています。








◆大田洋子文学碑

広島市中央公園内にあるのだが、ちょうど工事しているフェンスの向こう側になるみたいだ。
残念。

『大田 洋子(おおた ようこ、1906年11月18日 - 1963年12月10日)は、日本の小説家。本名、大田初子。
広島県広島市出身。8歳のとき父母が離婚したので親戚の大田家の籍に入る。1923年、進徳実科高等女学校(現在の進徳女子高等学校)研究科卒業。小学校教師として江田島に赴任したが6ヶ月で退職。1926年に結婚したが一児を残して出奔。尾道や大阪などで女給として働きつつ小説を書く。のち上京し、『女人芸術』に作品を発表。1939年、『海女』で『中央公論』の懸賞小説に一等入選。1940年、『桜の国』で『朝日新聞』一万円懸賞小説に一等入選。
1945年、疎開広島市に帰郷中被爆する。占領軍による報道規制の中『屍の街』『人間襤褸』を書き、原爆作家としての評価を確立。
しかし原爆の後遺症により体調を崩し、創作に行き詰まり、昭和30年代から作風を転換して『八十歳』『八十四歳』など老母を主人公に私小説的な心境小説を発表。
『新婦人しんぶん』に小説『なぜその女は流転するか』を連載中の1963年12月10日、福島県猪苗代町中ノ沢温泉で入浴中に心臓麻痺を起こして急死。57歳没。 』
大田洋子 - Wikipedia








◆空鞘(そらざや)橋

下は旧太田川







◆オブジェ

説明板などは見当たらなかった。







◆輜重兵第五聯隊・隊跡 馬碑



馬碑の由来
昭和三年、馬碑は幅重兵第五聯隊の兵営西南太田川沿いに建立された。
昭和二十年八月六日朝、米軍機の原爆投下により、輯重隊は壊滅、多くの兵士が犠牲になった。
その中で、馬碑は熱風を受けながらも唯一残った。
昭和五十七年、廣輜会(原隊の戦友会)により、隊跡馬碑と表示、復元された。

自動車が発達していない昔、物の運搬は主として馬匹によりなされていた。軍馬は日本各地より微発(強制買い上げ)され、隊で調教、乗、義、駄馬として、兵器、弾薬、糧秣の輸送に任じた。
 戦場に於いて、四肢の蹄に鉄をつけて保護され、車を轢き、また鞍上に百キロ余りの荷を背負わされ、人に寄与した動物は馬だけであった。
 蹄鉄は「馬の命」、行動中落鉄した時は、兵の沓下を重ねて蹄を保護し、次の休止時に予備鉄を装着した。
 戦場では晴雨昼夜の別なく行軍の為、鞍傷した馬背を兵は寝ずに水で冷やし看病し続けた。兵にとって馬は正に戦友であった。
 数次の作戦参加と米軍機の銃撃により、半数は戦死、終戦時は武装解除と共に、中国側に引き渡し、悲しくも馬は復員出来なかった。

初年兵時代、「馬は三百円、お前等は一銭五厘で織をたててやって来る!」と、古年兵に叱られ乍ら鍛えられ、然も、馬が先輩であり、初年兵の肩章にある星の数で見分けるのか、当初は思うように動いて貰えなかった。
 尚、馬は「活兵器」として大事に扱われた。

戦後六十年を経て、戦友は八十路を越え、健在者僅少となり、茲に幅重兵第五聯隊に唯一残された歴史的象徴たる、馬碑の由来を後世に伝えるべく、戦友の浄財と靖国神社の助成に依り、付帯施設を新設した。









続く。