2020/11/05 関西旅行4日目 広島・呉散歩 15 原爆ドーム

原爆ドーム

原爆ドームまで戻って来た。
今度はゆっくり見学。
工事中なのが残念。




広島県物産陳列館の建設
 原爆ドームのもとの建物は、 チェコ人の建築家ヤン・レツルの設計により1915年(大正4年)4月に広島県物産陳列館として完工し、 特徴ある緑色のドームによって市民に親しまれていました。
 館は、県物産の展示即売、 商工業に関する調査・相談などを業務としていましたが、美術展や博覧会など文化事業にも利用されました。
 その後、広島県立商品陳列所、広島県產業奨励館と改称し、業務の拡大が図られていきましたが、 戦争の長期化・激化とともに業務が縮小され、 内務省中国四国土木出張所、広島県地方木材株式会社など官公庁等の事務所として使用されました。

被爆直後の広島県産業奨励館
 1945年(昭和20年) 8月6日午前8時15分、米軍のB 29爆撃機が、人類史上最初の原子爆弾を投下しました。原爆は、広島県産業奨励館の南東約160メートル地点の上空約600メートルでさく裂し、 建物は大破・全焼、 館内にいた全員が即死しました。
 しかし、 爆風が上方からほとんど垂直に働いたため、 建物の壁の一部は倒壊を免れ、最上部に残った鉄骨により円蓋権をもつ建物であったことがわかる程度の残骸となりました。
 戦後、広島県産業奨励館の残骸は、最上部の円蓋鉄骨の形から、いつしか市民から、原爆ドームと呼ばれるようになりました。

第一回保存工事の状況
 原爆ドームについては、 当初、 記念物として残すという考え方と、 危険建造物であり被爆の悲惨参な思い出につながるということで取り壊すという二つの考え方がありました。
 しかし、市街地が復興し、 被爆建物が姿を消していく中で、 保存を求める声は次第に高まりを見せ、1966年 (昭和41年)、 広島市議会が原爆ドームの保存を決議しました。これを踏まえて、 保存工事のための募金運動が行われ、 国の内外の平和を願う多くの人々の寄金により1967年(昭和42年)、 第1回目の保存工事が行われました。
 その後も、数回の保存工事が行われ、 原爆ドーム被爆当時の姿を今に伝えています。

西側上空からの姿
 1996年(平成8年)12月、原爆ドームは、人類史上初めて使用された核兵器の惨禍を伝える歴史の証人として、 また、 核兵器の廃絶と世界の恒久平和の大切さを訴え続ける人類共通の平和記念碑として、 世界遺産に登録録されました。
 また、原爆ドーム周辺は文化財保護法による国の史跡に指定されるとともに、平和記念公園周辺を含む区域に緩衝地帯(バッファーゾーン) が設定され、 原爆ドームの保護が図られています。



原爆ドーム

昭和20年8月6日 史上はじめての原子爆弹によって破壞された旧広島県産業奨励館の残骸てある
爆弾はこの建基物のほぼ直上約600メートルの空中で爆発した
その1個の爆弾によって 20方をこえる人々の生命が失われ半径約2キロメートルに及ぶ市街地が廃嘘と化した
この恋痛な事実を後世に伝え人類の戒めとするため 国の内外の平和を願う多数の人々の寄金によって補強工事事を施しこれを永久に保存する



世界遺産原爆ドーム

人類史上最初の原子爆弾による被爆の惨禍を伝える歴史の商人として また 核兵器廃絶と恒久平和を求める誓いのシンボルとして世界の文化遺産及び自然遺産の保護のに関する条約(世界遺産条約)に基づき世界遺産一覧表に記載された。



猿楽町(さるがくちょう)通り周辺

 この地域一帯は、藩政時代からの城下町として、能楽(猿楽)師、細工師、医師をはじめ大小の商家が軒を並べてにぎわっていました。
 1945年(昭和20)年8月6日午前8時15分、人類史上初めての原子爆弾が細工町の島病院の上空600メートルで炸裂し、爆心直下のこの一帯は、人も街並も全滅しました。焼け跡には、広島県産業奨励館の残骸(現在の原爆ドーム)だけが象徴的な姿をさらしていました。
 復元地図は、原爆で消えたかつての街並みを後世に残すため、1998(平成10)年に作成されたもので、この一帯が最も活気にあふれていた1940(昭和15)年前後を生存者の情報を基に再現したものです。











続く。