2020/11/06 関西旅行5日目 奈良散歩 07 興福寺

春日大社の後は近鉄奈良駅へ向かっていたのだが、途中に興福寺へ寄った。



興福寺

中金堂


境内図

興福寺は、「山階寺厩坂寺という二つの前身寺院に由来する。本格的な造営がなされたのは、「日本の都が藤原京から平城京に遷った和銅3年(710) からで、平城遷都を企画しリードした藤原不比等を本願とする。平城宮大極殿(第一次)とほぼ同規模の中金堂や、猿沢池にその影を映して奈良のシンボルとなっている五重塔など、壮麗な堂塔が逐次建てられた。そして、平安時代弘仁4年(813)に、南円堂が建立され重厚な伽藍は完成した。平安時代に入ると、檀越の藤原氏摂関政治体制を確立し、その政治経済や文化の力が当山に反映して増大した。また、神仏習合思潮の下、春日社と合体。「春日社興福寺」として大和国の大半を領有するに至った。当山の歩みをふり返れば、まさに焼失と再建の歴史であるが、それでも阿修羅像などの天平乾漆群像や、運慶など鎌倉慶派仏師の仏教美術の数々が伝えられ、その深い精神性は人々を魅了してやまない。「興福寺では現在、平成22年(2010)に創建1300年を迎え、これを機に、「境内の史跡整備に着手。(天平の文化空間の再構成)を合言葉に、「創建当時の寺観を取り戻すべく活動している。








東金堂/五重塔








東金堂








五重塔








国宝館








南円堂








北円堂

こちらは中を拝見することができた。








南大門跡



法相宗大本山 興福寺
 興福寺の起源は、天智天皇8年(669) に中臣(藤原) 鎌足の夫人鏡女王が、鎌足の病気平癒を願って建立した山背国、現在の京都市山科区にあった山階寺にある。その後飛鳥に移されて厩坂寺和銅3年(710)の平城京遷都に際して、鎌足の息子の不比等が左京三条七坊に移し、興福寺と称した。
 やがて藤原氏の興隆にともなって、我が国の宗教界はもとより政治、経済、 社会、文化に大きな影響を及ぼした。長い歴史の中で度重なる確災と復興を繰り返し、現在に至る。
 和銅3年(710)から造営された境内は、平城京三条大路から少し北に控えて南大門門が建ち、北に中門、 中金堂、講堂、その左右前方に経蔵と鐘楼、また東、北、
西の三方を僧房が囲んでいた。
 さらに東側には南から五重塔、東金堂、食堂、盛殿、大炊殿が、西側には南から南円堂、西金堂、北円堂が建ち並んでいた。

中門・回廊の基壇復元
 平成10年(1998) に策定された「興福寺境内整備構想」に基づいて実施 さ れた発掘調查や古絵図から、中門は単層、屋根は切妻造り、東西5間23m 、南北2間8.4mで、正面中央3間を扉とし、その南面と北面に階段をつける。この基壇の規模は東西27m、 南北14mであった。
 また、回廊は中門から東西に張り出し北に延びてそれぞれ中金堂に取り付くかたちで巡っており、基壇の規模は東西87m、南北68m、幅10mであった。





北参道





三重塔を見逃してしまったなあ。
国宝とのことだった。





続く。