2020/11/16 石神井公園散歩 05 三宝寺

まだ石神井公園付近を散歩。
大きなお寺に遭遇。



三宝
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本堂

 本尊は大聖不動明王。そのほか両部曼荼羅海会の諸尊がお祀りされている。
 江戸時代の本堂は、文久三年(1863)五月十八日に火災のために焼失したが、檀徒の協力によってたちまち復旧した。しかし、その後間もなく明治七年(1874)三月六日再び灰燼に帰した。その後は仮の佛殿を建てたままで、 明治から大正へと長い年月が流れた。
 大正三年 (1914)に、第三十三世融憲和尚が晋住するに及んで、ようやく再建の目論見が立てられ、大正十一年(1922)に着工し、その後大正十二年(1923)には関東大震災のために、昭和十六年(1941)には太平洋戦争のために、 それぞれ中断した。
 その後昭和二十六年 (1951)からは第三十四世頼典和尚が継続して工事を進め、昭和二十八年 (1953)十一月三日落慶法要が修行された。構造は入母屋総欅造り銅板葺
さ、間口八間奧行九間、閼伽棚、讃所が含まれ、それに向拝と廻廊がついている。材料は近隣產の欅を用い、欄間その他の一切の彫刻は山崎朝雲の高弟佐藤芳重の作である。


都旧跡 石神井城跡および三宝寺池

 三宝寺池は湧水池で数百年以前から変わらない景観を保っている。この池の南側台地上が豊島一族の根拠地石神井城であった。豊島氏は平安末期既に歴史上著名になり鎌倉幕府創立の功臣であった。石神井城は頼朝の信頼が厚かった豊島清光五代の孫泰景の頃に築城されたものである。文明九年(1477)豊島氏は太田道灌と激しく戦を交えて敗れたが4月28日の夕方ついに落城した。


境内案内図








通用門 長屋門



 練馬区旭町兎月園にあった勝海舟邸の屋敷門が、所有者の明電舎の事情により、取毀しの処分を受けるに際し、當時の練馬区長須田操氏の斡旋で、當山に移建された。
 昭和三十五年(1960)十一月、新井工務店の手によって解体移建された。








鐘楼



 銅製。高さ164.4cm、ロ径85.8cm、鐘の下部には唐草文、撞ㄑ部分に八葉蓮華文があるのが特徴です。銘文には延宝三年(1675)、椎名伊予守藤原吉寛(しいないよのかみふじわらよしひろ)によって、造られたことが記されています。



 鐘は延宝三年 (1675)の鋳造であるが、鐘楼は度々改築されている。 近年では明治二十八年 (1895)四月に再建され、境内中央の榧の木の東の位置にあったが、昭和三十四年(1959) 九月、檀徒総代小俣新五左衛門氏の寄進によって、長屋門を入った左側に一丈程の間知石の基壇を積んで移建された。
 そののち昭和四十九年(1974)大師堂改築と期を一にして現在地に改築された。








正覚院



 正覚院は三寶寺旧六塔頭の一つの名である。
 昭和五十一年(1976)客殿改築に際し、昭和三十一年(1956)建立の建物を移築してその名を復活し命名し、その後平成十九年(2007)新築Lたものである。








手水者








大黒堂・子育千体地蔵堂



 大黑堂は、第三十三世融憲和尚の念持佛であった、大黒天尊像を本尊としている。
 昭和四年(1929)に大黒堂を創建され、併せて江戸時代経堂に祀られていた、子育千体地蔵尊を合祀された。そして東京をはじめ近在に甲子講中の結成を求め、
信徒を募り殷賑を極めた。
 現在のお堂は昭和五十九年(1984) の甲子大開帳を期に、大黑天と千体地蔵尊を別祀し、上階を大黒堂、下階は千体地蔵堂として改築された。








四国八十八ヶ所お砂踏霊場案内図

 四国八十八ヶ所お砂踏霊場とは、むかし弘法大師空海上人が修行された四国の各地に因んて開かれた「四国八十八ヶ所霊場」を模して、この三宝寺の境内に設けられたものてす。 明治二十八年(1895)、第二十九世真阿闍梨が発願され建立されたものですが、十七ケ所を建立したところで中断されていました。
 昭和四十八年(1973) 宗祖弘法大師ご誕生 一千二百年を期Lて第三十四世頼典和尚がその完成をめざし、 多くの檀信徒のご協力を得て結願したものてあります。 完成の時には檀信徒の代表鼓十人によって 四国を遍路し、その寺々のお砂をいただいて各札祈の寺標石の下にお納めし、 この霊場を参拝すれば、四国霊場を参拝したのと同じご利益がある、 といわれています。
 尚、 お砂踏霊場入口左侧に建立されている「弘法大師」の石碑は、 天保五年(1834)「宗祖弘法大師一千年御諱報恩供養塔」として、 第二十四世慶尊阿闍梨が建立されたものです。



 明治二十九年(1896)、時の住職清護真事師が発願されたもので、十七ヶ所が出来上がったところで、未完成のまま約七十年間中断されていた。
 昭和四十八年(1973)、弘法大師ご誕生一二〇〇年記念事業の一つとして、檀信徒に呼びかけその完成を目指し、残り七十一ヶ所と高野山奥之院を合わせて七十二ヶ所、合計八十九ヶ所が建立された。








宝篋印塔



 天明元年(1781)六月の造立になるもので、建築当初は御成門近くにあった。
 しかし、大正十二年(1923) 九月一日の関東大震災で倒壊したため、大正十四年(1925)三月、田中半左衛門、豊田利右衛門その他有志の寄附と住職の努力によっ
て、現在地に移建した。








大師堂(奥之院)



 建物什宝調書控には「経堂」として載せられているもので、絵図面によれば、古来ほぼ現在地の近くにあったと思われる。昔は一切経等を納めた経蔵であったが、これに千体地蔵と弘法大師を安置したので、専ら大師堂と呼ばれていた。
 近年までは朱塗りの小堂であったが、昭和四十二年(1967)に迎えた、弘法大師ご誕生一二〇〇年を記念して改築された。
 現根本大塔の位置にあったものを、平成四年(1992)根本大塔建立に伴って現在地に移建された。








根本大塔








平和観音・観音霊








観音堂









御成門



 寛永二年(1625)及び正保元年(1644)に、徳川家光が狩猟の際、當山が休憩所とされたので、この山門を御成門と称するようになった。江戸時代には、平常は門扉を閉して庶民の通行を禁じていたといわれている。
 棟札に記されたところによれば、當山第二十三世宥泉和尚が、布施物を蓄積して再建したものである、という。
 文政十年(1827)七月二十六日に成り、二度の火災にもその難を免れ、當山第一の古建築であるばかりでなく、當地方稀に見る傑れた山門である。
 昭和二十八年(1953)本堂完成と共に修覆の工を終えた。






続く。