2020/11/20 見沼通船堀散歩 01 東浦和駅/橋/見沼通船堀/見沼通船堀公園/女体新橋/見沼通船堀西縁/通船堀公園橋

24時間勤務アケで、友人と東浦和駅から見沼通船堀へ。



東浦和駅







◆橋

下は見沼代用水西縁。
橋名板が見当たらず、名前がわからなかった。





見沼の笛 見沼の伝説

 昔、このあたりの見沼が、まだ満々と水をたたえていたころのこと。
夕暮れになると、沼のほとりのどこからか、美しい笛の音が流れてきます。そしてその笛の音に誘われるかのように、村の若い男たちが一人、また一人と沼のほとりから消えてゆきました。
 村の若者は、だんだん少なくなって、お百姓もできなくなるほどになりました。困った村人たちは、これはきっと見沼の主が、なにかを怒ってなされるにちがいない、見沼の主の心を鎮め、いなくなった若者たちを慰めるため供養塔を建てることにしました。そして大きな石の塔を建て、ねんごろに供養しました。それ以後は、不思議な笛の音は、ぴたりとやんで、行方不明になる若者もなくなり、再び村は平和になったということです。







見沼通船堀




 見沼通船强は、江戸時代中项 に 築造されたた閘門式運河です。德川幕府の命を受け て、見沼の新田開発を行った幕府勘定方并沢弥惣兵衛為永 (いざわやそべえためなが)よって、享保十六年 ( 1731) 東西 の見沼代用水路(農業用水路) と排水路である芝川の間に開かれたのが見沼通船堀です。
 見沼代用水路芝川の間の、3mの水位差を調整するために、東西とも二か所ずつの閘門が設けられていました。
 通船堀の開通によって、江戸からの船が見沼代用水路绿辺の村々へ、また見沼代用水路縁辺の村々から江戸へと舟運が発達しました。
 この運河は、大正末年に使われなくなりましたが、 その遺構は、 我が国の土木技術や產業交通の発達を知る上で、極めて貴重なものといえます。







見沼通船堀公園



紅葉が綺麗♪



見事な竹林。



 見沼通船堀は、享保十六年(1731)に幕府勘定吟味役井沢弥惣兵衛為永によってつくられた我が国最古の閘門式運河です。通船堀は代用水付近の村々から江戸へ、主に年貢米を輸送することを目的として、東西の代用水路と芝川を結ぶかたちでハ丁堤の北側につくられたものです。東縁側が約390m、西縁側が約645mもありますが、代用水と芝川との間に水位差が3mもあったため、それぞれ関を設けて、水位を調節し船を上下させました。関と関の間が閘室(こうしつ)となり、これが閘門式運河と呼ばれる理由です。この閘門をもつことが見沼通船堀の大きな特徴となっており、技術的にも高く評価されています。
 通船堀を利用して江戸に運ばれたものは、年貢米の他野菜、薪炭、酒、柿渋などの代用水付近の村々の生産物で、江戸からは肥料、塩、魚類、醤油、荒物などが運ばれました。
 船を通すのは、田に水を使わない時期で、初め秋の彼岸から春の彼岸まででしたが、後に冬場の二ヶ月程と短くなりました。通船は、明治時代にも盛んに行われましたが、陸上交通の発達などによってすたれ、大正時代の終わり頃には利用がなくなり、昭和六年の通船許可の期限切れとともに幕をおろしました。
 見沼通船堀は、江戸時代中期の土木技術や流通経済を知る上で貴重な文化財なため国の史跡に指定されています。
また通船差配(さはい)(船割役(ふなわりやく))の鈴木家住宅もあわせて指定され、保存されています。







◆女体新橋

この下が通船堀。
近くに「附島氷川女体神社」とあるが、橋名はそこからかな?
神社への道は工事中で行くことができなかった。
しかし「女体」って・・・・。








見沼通船堀西縁

木が邪魔でよく見えない。




石碑



 見沼通船堀は、江戸時代中頃に築造された閘門式運河の遺構です。享保十三年(1728)、德川幕府は井沢弥惣兵衛為永に命じ灌漑用水路である見沼代用水路を開削しま
した。その三年後の享保十六年、物資輸送を目的に、為永によって東绿用水、西绿用水とその中央を流れる芝川を結んでつくられたのが見沼通船堀です。
 見沼通船堀は、東西二つに分かれており、東緣侧が約390m、西緣側が約650mあります。東西の各用水と芝川の水位差が3mもあったため、閘門を用いることによって水位差を調製し、船を通しました。
 通船の時は、堀の主手から船につけた綱を引いて通しました。この時船頭はもちろんのこと、近所の人々の大きな助けが必要でした。







◆通船堀公園橋



あちこち工事中。









続く。