2020/12/21 練馬高松散歩 04 庚申塔/大日如来虚空藏菩薩下の堂・庚申塔/高松二丁目児童遊園/環八通り高架/田橋敷石供養塔と高松の庚申塔/高松八幡神社/耳塚

だいたい環八通り沿いに東へ進む。
耳塚からは通りから離れて北西へ進む。




庚申塔



 清戸道は、練馬区の東端から西端まで延長約15km、区 のほぼ中央を横断している道路です。この道を東に行くと目白駅をへて江戸川橋に達し、北西に行けば、保 谷、久留米をへて清戸(清瀬市)に着きます。
 練馬の村々から江戸に出るためには、この道を通るのが最も近道でした。江戸時代から練馬のお百姓さんは、朝早く野菜をもって町に向い、昼頃には、下肥を運んで帰って来ました。その下肥を、中農以上の百姓は、馬の背で、中農以下の百姓は、天秤棒で運びました。
 明治、大正時代には、手車が発達し、金輪のはまった車の音は、静かな夜明けの前の空気をふるわせていました。
 目白坂に車のあと押しをして金をもらっていた立坊がいたのも有名な話です。このように清戸道は、農産物輸送の重要な道路でした。










大日如来虚空藏菩薩下の堂・庚申塔










◆高松二丁目児童遊園










環八通り高架



こちらをくぐって道路の南側へ。









◆田橋敷石供養塔と高松の庚申塔



 敷石供養塔は文化四年(1807)、清戸道を利用する大勢の人びとが寄進した敷石の完成記念と交通安全を祈願して建立された供養塔です。
 むかし、この付近(元宮田橋)は石神井川沿いの湿地で、野菜や肥料などの運搬に難渋していました。彫られた地名には区内はもちろん、埼玉県の村名もみられます。いかに広範囲にわたる地域の人びとがここを通行し、この時の敷石完成を喜んだかをうかがうことができます。
 庚申塔は正徳五年(1715)上練馬村高松の人びと26人によって造立されたものです。主尊は六臂の青面金剛で、力強く天邪鬼を踏まえ、下には「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿が彫られています。
 庚申信仰平安時代に中国から渡来したといわれ、江戸時代には富貴長命を願い、庶民の間でも盛んになりました。この塔は区内に現存する百三十余基の庚申塔の中で一番大きいものです。



本石塔はには宮田橋際にあり庚申塚として地元信者によって祀られていた。
然し 石神井川耕地整理以後、田畑が画一化され、時後道路拡巾用水路の整備等又都市発展の影響による宅地化家屋の急增によって、之れがため移転の巳む無きに到リ当地に安置す。
有志此れを誌きんがため特に碑を建立、併せて交通安全のため祈願遷都するものである。合掌










◆高松八幡神社



当社創建は康平年間(1060年代)源頼義公奉し国家安泰、勝運安泰祈願し、先に鷺宮八幡をたて、つづいて、当社をたて、当社若宮八幡と称し、崇敬厚き古社であり、
現在、高松、買井、貫井、ほかの氏神様であります。


八幡神社の石造大山不動明王



 神奈川県の大山を信仰する氏子たちによって、享和三年(1803)に建立された大山不動明王像です。
 正面に「石坂供養大山大聖不動明王」、向かって右側面に建立年、向かって左側面には発願人の名前が刻まれています。
 大山は、雨乞いの山として農村であった練馬でも崇拝されました。当地から大山に参詣する人は、氏神およびこの不動明王にお参りしてから、石神井川で身を清めて、大山詣でに出発したと伝えられています。


夫婦社


道祖神



境内社


境内社


境内社



境内社


須賀神社


境内社


楽殿


裏参道


阿弥陀寺

google mapには、境内裏手に「阿弥陀寺跡」のマークがあった。
WEBで調べただが詳細がわからなかった。


鳥居









◆耳塚



伝説の地 耳塚
 この塚は耳塚と呼ばれ、次のような伝説が伝わっています。
 むかし、上練馬村字中の宮(春日町5丁目)に信仰心のあつい老婆がいました。老婆は生きていくのが嫌になり、村人たちに頼んで桶に入れて埋めてもらい、鉦をたたきながら往生しました。それからしばらくして、不思議なことに耳の悪い人が竹筒に耳をあてたり、花立てにたまった水で耳を洗うと耳の病気がよくなりました。このことが近在に知れわたり、多くの人がお参りするようになりました。
 現在は「円浄法師之位」と記した明治四十四年(1911)の石碑が建っています。







続く。