2020/01/13 西台散歩 06 富士嶽神社/下練馬の富士塚/清性寺跡・白狐稲荷神社/北町商店街/北一商店街/徳川綱吉御殿跡/富士橋跡

東武練馬駅南東エリアを散策。
駅少し南に東西に通る道は旧川越街道だった。



◆冨士嶽神社


境内社


鳥居1


鳥居2


旧川越街道

 この道は、戦国時代の太田道灌川越城江戸城を築いたころ、二つの城を結ぶ重要な 役割を果たす道でした。
 江戸時代には中山道板橋宿平尾の追分で分か れる脇往還として栄えました。日本橋から川 越城下まで「栗(九里)より(四里)うまい 十三里」とうたわれ、川越藷(いも)の宣伝にも一役 かいました。
 下練馬宿は「川越道中ノ馬次ニシテ、上板橋村へ二十六丁、下白子村へ一里十丁、道幅五間、南へ折ルレバ相州大山へノ往来ナリ」とあります。川越寄りを上宿、江戸寄りを下宿、真ん中を中宿とよびました。
 上宿の石観音の所で徳丸から吹上観音堂へ の道が分かれています。 通行の大名は川越藩主のみで、とまることはありませんが、本陣と脇本陣、馬継の問屋 場などがありました。旅の商人や富士大山詣、 秩父巡礼のための木賃宿もありました。
 浅間神社の富士山、大山不動尊の道標、石 観音の石造物に昔の街道の面影を偲ぶことができます。








◆下練馬の富士塚



當社は、明治先代に上駅地に築かれたと伝えられ、徳川五代将軍綱吉の頃には時を揚げての祭典もあり、又古く此の地は宿場街として大変な賑わいを見たところで、爾来富士浅間神社の霊山として厚く崇敬され今日に及んでいる。
なお、山は明治の前に第一回、明治五年六月に第二回の築造がなされ、街内の発展に伴い、昭和二年六月第三回の築造により現今の様態を呈するに至った。



山頂


標高プレート

山頂祠の前にある。
標高37.76mとあった。


山頂からの眺め

こちらが一番開けていた。
富士山は建物が邪魔して見られない。








◆清性寺跡・白狐稲荷社

こちらは清性寺お堂。


白狐稲荷社



清性寺の由来
 清性寺は江戸時代の初期よりあり「新編武蔵風土記稿」にも記録されております。その内容は、「金乗院末、下三ヶ寺並に同じ、神明山観音院と号す。本尊不動は弘法の作、長さ1尺2寸立像なり。法流開山快遍宝暦八年二月二十七日化す。」とあります。歴代の住職の墓石の名前を見ますと、かなりな高僧であったことがわかり、権威の高さがうかがえます。境内には明治の初期までは、鐘楼もあったと言われ、寺の敷地はかなり広大であったものと思われます。
 清性寺の入り口にある「招魂碑」には千川上水の開拓者、千川家の名前を始め、多くの阿弥陀堂有力者の名前が刻まれている事が上げられ、阿弥陀堂との関係の深さを物語っています。又、清性寺と阿弥陀堂は一体であったものと判断できるものであります。この事をとらえ、双方の墓石などの年代を追いますと、清性寺には寛文二年(1662)の住職の墓があり最も古く、他にも寛文11年の尼さんの墓があり、330年以前の徳川時代初期から本寺が実在していた事が実証されるものであります。阿弥陀堂では寛文十二年(1672)のものが最も古く、創世期の清性寺、阿弥陀堂、双方の往時の歴史の重さが感じられます。
 又、現存する寛政四年の「下練馬絵図」を見ますと、本寺の規模も知ることができ、往時の賑わいを偲ぶことが出来るものであります。
 本尊不動像は、弘法の作とあり製作年度は不明ですが、この度の火災により、全体が焦げ、手は無いものの現存致しており、又、ご本尊以外にも比較的大きな弘法大師像、木魚等があり、同じ年代の作と思われます。この様な古い仏像は、北町ではこれ以外に実在せず、我が街の宝として大切に保存、後世に残さなければなりません。このために、お堂、稲荷社等を多くの関係者の努力により、この度再建をし、合わせて地域の皆様の幸せを願うものであります。

白狐稲荷霊石の由来
 白狐稲荷は白い狐が石に浮き出ている霊石で、徳丸の斉藤家から祭りこみを依頼されたものと言われております。
 斉藤家の由来によれば、これは、豊臣秀吉公の守り神であったが、慶長5年、関ヶ原の戦の際に、秀頼公から石田三成に渡したものだと言われ、戦いに敗れた石田三成は、越後に逃げ延びたが、大切なこの石を泊まった宿に預けてしまったため、捕まって死罪になったと言われております。もしこの霊石を、離さず持っていれば難に遭わなかったのではないかと言われ、その後は、この宿の災難よけの稲荷となっていたものだそうであり、斉藤家はその宿の子孫にあたります。










◆北町商店街

商店街♪
通りは旧川越街道。










◆北一商店街

商店街♪
こちらも通りは旧川越街道。









徳川綱吉御殿跡



この地一帯はかつて「御殿」と呼ばれた土地であった。
後に江戸幕府第五代将軍となる徳川綱吉が寛文年間(十七世紀後半)にこの地を鷹場とし、宿泊所として「鷹狩御殿」を建てたことに由来する。








◆富士橋跡

下は田柄川(暗渠)




右側に上記「徳川綱吉御殿跡」の碑が立っている。







続く。