2020/01/13 西台散歩 07 金乗院阿弥陀堂/北町ふれあい公園/北町観音堂/東武練馬駅/北町商店会/本陣跡地緑地/北町浴場

東武練馬駅南東エリアから一度北上して東武練馬駅へ。
そこからは北西エリアを散策。



金乗院阿弥陀堂



阿弥陀堂と千川家墓所
 この阿弥陀堂は、『新編武蔵風土記稿』に「阿弥陀堂二、一ハ金乗院持、一ハ清性寺持ニテ弥陀ハ春日の作ナリ」とあるうちの後者に当たります。清性寺は明治に廃寺となり、金乗院と合併しました。本堂の半鐘は天保十四年(1843)のものです。銘文に「神明山清性寺持阿弥陀堂」と記されています。
 墓地には千川家累代の墓があります。千川家は千川上水開設の功労者として知られています。
 千川上水は元禄九年(1696)、江戸下町方面の飲料水として玉川上水から分水された水道で、工事には徳兵衛・太兵衛の二人が当たりました。私費を投じて工事を完成させた功績により、両人は幕府から名字帯刀を許され、千川家の姓を賜りました。
 開通から十年後の宝永四年(1707)、上水は付近二十か村の農民の願いで、灌漑用水として利用できるようになりました。両人の子孫は代々下練馬村(現在の北町)に住み、千川用水の取締役として維持管理に努めました。
 この墓所には初代徳兵衛から数えて三代目の源蔵以下四代善蔵、五代仙輔、六代民蔵、七代右保などの墓が建っています。
練馬区登録文化財
〇千川家の墓
阿弥陀堂の半鐘








◆北町ふれあい公園







◆北町観音堂



北町観音堂(石観音堂)
 ここには、天和二年(1682)銘の「北町聖観音座像」をはじめ馬頭観音庚申塔など数多くの石造物があります。 江戸周辺を探訪した小石川の僧が記した紀行文『遊歴雑記』 にも、文化十二年(1815)にここを訪れた記述があり、往 来の人々の信仰や赤塚村への分岐道の目印ともなっていた ことが分かります。

練馬区指定有形民俗文化財 「北町聖観音座像」 平成八年二月指定
 高さ270cm、区内最大の石仏。背には「武州川越多賀町隔夜浅草光岳宗智月参所奉新造正観音為四 恩報謝也告(時)天和二年八月⋯」、台座には川越街道沿 いの二十九の地名が刻まれています。

練馬区登錄有形文化財「北町の仁王像」 平成十一年一月登録
 向かって右、阿形(あぎょう)像、左、畔形(うんぎょう)像。重厚な造りの像で、両像 の背には「天和三年⋯奉立之施主光岳宗智⋯」の銘があり、 聖観音座像建立の翌年に建てられたことが分かります。

馬頭観音
 高さ138cm、頭上に馬頭を戴き、忿怒(ふんぬ)の相をしています。制作年は不詳ですが、形態から江戸時代の造立と推測されます。


北町聖観音座像


北町の仁王像


馬頭観音/庚申塔


北町観音堂・塀工事等整備記念碑

 北町は災害に強い街づくり、密集住宅再生事業に取り組み、道路の拡幅、公園の新設、建て替え促進などの事業を行い、既に十五年が経過している中で、北町観音堂から北側に入る 路地が狭く、消防自動車が入りやすく、防災機能向上させるために、境内の一部を隅切り部分として提供し、地域のために資することといたしました。
 その上で、北町は旧川越街道の宿場町でもったことから、宿場のイメージを創造 ていく運動もかかねてから行っており、その意を活かした整備はどのようなものがよいのかを考慮し、塀の一部をなまこ壁にすることと致しました。
 また、境内には小型の石仏四体がありますが、昔は道路治いにあったとのお話もあることから、旧道に面した位置に変更し、争くの方々の目に触れ、多くの方々に愛される北町観者堂で有りたいとの思いを込め、この度の全体計画としたものであります。
 江戸時代からの町内の大切な旧跡である北町観音堂が明治、大正、昭和、平成と更に未来永劫続いていく事を祈念すると共にこの工事を記録するためこの記念碑を設置するあのであります。


旧川越街道

 この道は、むかし川越と江戸を結ぶ道路でした。室町時代太田道灌の頃には、すでに開かれていて、北武蔵と 南武蔵とを結ぶ重要な道でした。
 江戸時代、参勤交代でこの道を通った大名は川越藩主だけでした。したが って宿泊の必要が少なく、下練馬宿に は大きな旅籠がありません。庶民を相手とした休み茶屋が数軒あった程度でした。
 「栗より(九里四里)うまい十三里」は、 川越芋の宣伝文句として有名ですが、 江戸・川越間は、九里足す四里の計十三里(約51km)でした。
 このあたりは下練馬宿と呼ばれてい ましたが、交通の要所に石造物や道標があり、むかしの街道の雰囲気が残っ ています。







東武練馬駅








◆北町商店会

西台散歩 06 にも出てきた商店街♪
こちらは東武練馬駅の西側になる。
2020/01/13 西台散歩 06 富士嶽神社/下練馬の富士塚/清性寺跡・白狐稲荷神社/北町商店街/北一商店街/徳川綱吉御殿跡/富士橋跡 - ovanの社会科見学








◆本陣跡地緑地



旧川越街道の商店街のあたりは、江戸時代に「下練馬宿」がおかれました。川越街道は、江戸日本橋と川越の間およそ43kmをつなぎ、板橋淑で中山堂と分かれました。下練馬宿は、上宿(かみじゅく)、中宿(なかじゅく)、下宿(しもじゅく)から構成され、本陣・脇本陣(幕府役人や大名などが宿泊・休憩する施設)、問屋場(といやば)(馬や人足を用意し、荷物を次の宿場まで届けるところ)がありました。下練馬宿に暮らす人々は、名字を名乗れる人は少なく、商家や職人などは家ごとに「屋号」をtyけて呼び合っていました。江戸から近い下練馬宿は、宿泊よりも休憩するところとして利用されることが多かったようですが、参勤交代のほか、行商人や大山・富士参詣の旅人など、さまざまな人々の往来でにぎわいました。


練馬大根発祥の地碑



 ここ、北町には五代将軍徳川綱吉が右馬頭(うまのかみ)であったころ、御殿を構え、一時期療養していたと伝えられています。その際に、大根を栽培させ、良い大根が取れたことから、江戸に帰城した後も大根を献上させたという伝説があります。
 また、この場所に下練馬宿の本陣があったことから、名称を本陣跡緑地としました。







◆北町浴場

銭湯♪








続く。