少し外れたりもするが小豆沢通りを南西へ進む。
この辺りは以前「健康ウォーク2017」で散策した場所が被る。
◆小豆沢貝塚
こちら「龍福寺」の墓地内にあった。
飛び地になっているらしく、本堂はもう少し離れた場所にある。
こちらは健康ウォーク2017の時に訪れた場所。
2017/12/03 志村坂上散歩 02 小豆沢神社/小豆沢貝塚/道標?/菜な笑 - ovanの社会科見学
小豆沢貝塚は、明治十六年(1883)に当時大学生であった、白井光太郎と坪井正五郎が発見したという記録が残っています。これは日本の考古学の出発点であるE・S・モースの大森貝塚の発掘調査からわずか六年後のことで、明治期から大森貝塚(品川区)や、西ヶ原貝塚(北区)などとともに広く知られていました。
この貝塚は、縄文時代の後期から晩期に(今から約3700〜2500年前)、区立小豆沢体育館部分に存在する谷(入江)に面して形成されたもので、この案内板の建つ墓地周辺から、小豆沢神社の手前にかけて広がっています。
過去の調査では、縄文時代の土器や石器、およびハマグリ・ヤマトシジミなどの貝やマアジ・クロダイ・スズキ・コイ・フナ・イノシシ・シカなどの骨が多数出土しています。しかし、現在は住宅が建ち並び、遺物の散布が見られるのは、この場所だけになってしまいました。
このことから、この場所は昭和六十年度に板橋区の登録文化財となりました。
◆御手洗不動尊
下記、龍福寺の門前にあった。
御本尊は大日如来。宗派は真言宗智山派。薬王山東光院龍福寺と号しています。
本寺は、室町時代末に袋村(現北区赤羽)の真頂院の僧運珍が隠居寺として創建したのに始まるといわれています。その後の寺暦について詳細は不明ですが、19世紀初頭の「新編武蔵風土記稿」に末寺として興隆寺や教性院があげられているので、この頃には寺勢いを誇る寺となっていたことがわかります。
本寺に伝わる「薬師縁起」には、薬師堂に祀られている薬師如来(秘仏)が天長年間(824~834)に台地下の七々子崎(ななこざき)と呼ばれる荒川の入り江で発見されたことや、小豆沢の地名が、平将門への貢物を積んだ舟がここで沈み、その際積荷の小豆が流出したことに由来していることが書かれています。
本寺には、かつて二十余基の板碑があって、板碑寺とも呼ばれていましたが、先の大戦の空襲で、その多くが破損し、現在では昭和五十八年度に板橋区の指定文化財となった建長七年(1255)の板碑など7基が残るだけです。
なお、当寺は豊島八十八ヶ所霊場の第86番札所となっています。
梅
ちらほらだけど梅の花が咲いていた。
◆小豆沢神社
こちらも以前来たことがある。
2017/12/03 志村坂上散歩 02 小豆沢神社/小豆沢貝塚/道標?/菜な笑 - ovanの社会科見学
小豆沢神社とスダジイ
当社は、康平年間(1058〜1065)、源義家の勧講と伝えられます。江戸時代には、十二天社と呼ばれ、小豆沢村の鎮守でした。
小豆沢の地名の由来については、
一、平将門の時代、神社の大地下の入江’荒川の昔の河道)に停泊中の船が嵐に遭い、小豆を積んだ袋を流失した。
二、上流から漂着した米を腐らないうちにと食べたことを、裁判で評価され、祝いの小豆飯を炊いた。
という二つの故事が残ります。現在では、後者の故事に因み、毎年六月一五日に餅つき祭りが執り行わていれます。
明治二年(1869)、社号を小豆沢神社に改め現在に至っています。
二の鳥居脇のスダジイは、当社の御神木です。南の道路側部屋や傾斜し、幹の内部が空洞化していますが、樹勢は良好です。天然記念物として、平成六年度、区の記念物に登録されました。
◆小豆沢4丁目の広場
現地で公園名がわからなかった。
google mapにも載っていなかった。
続く。