2021/02/04 板橋中台散歩 01 池袋駅/上板橋駅/上板南口銀座/寿湯/子育て地蔵/川越街道 五本けやき/伏見稲荷神社

24時間勤務アケで、東武東上線上板橋駅から都営三田線志村三丁目駅まで散歩。



ここでは上板橋駅南側エリアを散策。



池袋駅

東武東上線改札。
池袋駅で乗り換え。
久々の東武東上線乗車。








上板橋駅

スタートの東武東上線上板橋駅










◆上板南口銀座

商店街♪










◆寿湯

銭湯♪







◆子育て地蔵



 当地に安置さている地蔵は、通称「子育て地蔵」と呼ばれ、人びとに広く親しまれています。お堂の中にある二体の地蔵は、もともと栗原堰の一本橋(現在の桜川一丁目5番地)付近に建っていたものといわれていますが、それを裏付けるように、石仏の台座や本体には貞享五年(1688)や安永六年(1777)といった造立された年号や、上板橋村栗原を中心とした奉納者の名前が刻まれています。
 明治初年に、これらの地蔵は、川越街道に面した「ガッカラ坂」と呼ばれる当地に移ったといわれています。大正三年(1914)川越街道と東上鉄道(現在の東武東上線上板橋駅 を結ぶ道(現在の上板南口銀座)が通じた時には、両道が交差した角地に据えられていましたが、この時すでに地蔵は倒され、放置された状態であったといわれています。また、移転した当初には三体あった地蔵も、いつしか二体となっていたといいます。
 その当時、宝田豆腐店主であった宝田半二郎氏は、地蔵が荒れ果てた状況にあったことを憂慮し、大正十二年頃に店舗に隣接した現在の場所へと地蔵を移しました。さらに昭和10年頃になると、半二郎氏の子息である宝田源蔵氏と七軒家の木下仙太郎氏が中心となって、地蔵をお祀りする地蔵講 を結成しました。講員も三百名を数えたといわれています。
 都市化がすすんだ現在も、子育て地蔵は、人々の素朴な願いを引き受ける地蔵様として、商店街を中心に大切に守られ、お祀りされています。また、四月から九月にかけての七の付く日には、地蔵堂の前の旧川越街道で縁日が開かれるなど、地域の活性化にも一役かっています。








◆川越街道 五本けやき




 大正十二年(1923)九月の関東大震災で、 甚大な被害を受けた東京の市街地は、復興とと もに近郊の農村部へも急速に拡大していきました。その際、道路網の整備も計画されました。
 江戸時代に、中山道平尾追分(現板橋一丁目)で分岐され、江戸と川越を結ぶ往還として 整備された川越街道は、蛇行して道幅も狭く、 荷車などの往来でできた轍も通行の支障となっていました。川越街道は、震災復興計画の中で、 東京から周辺部へ放射状に延びる幹線放射道路の一つとして再整備が計画され、その拡幅と直線化のため用地取得が必要となりました。
 この地には、醤油醸造業を営み旧上板橋村村長・東京府会議員も務めた飯島弥十郎家の屋敷林がありましたが、道路用地となったことで伐採される予定でした。しかし、同氏の強い要望により、道路中央部にその一部を残すことで新川越街道(現国道254号)が完成しました。
 新川越街道の中でも特徴的な景観となったケヤキの木立は、「五本けやき」と呼ばれ親しまれ てきました。立ち枯れにより、三本になってし まった時期もありましたが、地元有志らによっ て二本が移植され、元の姿を取り戻しました。 昭和四十五年(1970)には、五本けやき保存会が結成され、その保護活動が行われています。







伏見稲荷神社








続く。