2021/02/06 野方散歩 03 江古田三丁目商栄会/江古田氷川神社/東福寺/江古田二丁目公園/古塚(稲荷塚・狐塚)/江古田しいの木公園/第三江古田アパート

東福寺まで東へ進んだ後は南下。



◆江古田三丁目商栄会

商店街♪
こちらは以前来たことがある。
2017/11/04 江古田散歩 09 江古田氷川神社/江古田三丁目商栄会/江古田橋/名前のわからない祠 - ovanの社会科見学










◆江古田氷川神社

こちらは以前来たことがある。
2017/11/04 江古田散歩 09 江古田氷川神社/江古田三丁目商栄会/江古田橋/名前のわからない祠 - ovanの社会科見学



氷川神社と江古田獅子舞
 江古田氷川神社は、寛正元年(1460)スサノヲ命をここに祭ったのに始まると伝えられています。
 現在の社殿は、昭和七年(1932)の改築によるもですが、神楽殿(中野区指定文化財)は、弘化三年(1846)に拝殿として建てられたもので、格天井(ごうてんじょう)には花や鳥が描かれています。
 十月第一日曜日の例祭日には、神楽殿の前で江古田獅子舞保存会の人たちによる獅子舞が奉納されます。当日、旧江古田村の名主をつとめた深野家を出発し、氷川神社までの沿道で華麗な獅子舞行列をくりひろげるありさまは、色あざやかな絵巻物といえましょう。
 江古田獅子舞は、「一人立ちの獅子」の系統に属し、大(だい)獅子。中(なか)獅子の雄二頭が女獅子(めじし)とともに軽快に跳ね踊る「三匹獅子」の特色を示し、花笠役のほか、朱雀・青竜・玄武・白虎の四神の笠を被った役の登場するのが珍しいとされ、昔、病魔退散の祈とうに演じられ、徳川三代将軍家光の上覧にも供したと伝えられています。


北野天満宮/熊野八幡神社


「?」/稲荷神社

左側の祠は何が祀られているのかわからなかった。


お地蔵様


霊神社


楽殿



 江古田氷川神社の神楽殿は、区内に残されている数少ない江戸時代の建造物で、弘化四年(1847)に建立されたものです。昭和七年(1932)まで、
本殿として使われていましたが、新しい本殿を建築するにあたって現在地に移築されました。
 桁間三間(5.5m)、梁間二間(3.6m)、屋根は寄棟造りで、勾配や全体のバランスはとても美しいものです。内部は床面が板張りで、天井は格天井になっています。この格天井には色彩かな花鳥画が描かれています。
 言い伝えでは、この地の名主である山崎家の離れ(茶室書院として区立歴史民俗資料館に現存)に絵師が逗留し、そこから通って花鳥画を仕上げたということです。 山崎家にも、こ の時の絵師によって描かれたとされる襖絵が残されています


山崎家茶室は以前行ったことがある。
2017/11/04 江古田散歩 06 中野区立歴史民族資料館 「山崎家茶室・庭園」 - ovanの社会科見学









東福寺



このお寺の宗旨
宗派   真言宗豊山(ぷさん)派
総本山  豊山長谷寺 奈良県桜井市初瀬
祖師   宗祖  弘法大師 空海上人 
     中興祖 興教(こうきょう)大師 覚鑁(かくばん)上人
     派祖  専誉僧正(せんよそうじょう)
開宗   真言密教は、平安初期に弘法大師によって中国からもたらされ、わが固で開宗されました。その特徴は理性と感性の両面から宗教的な安心を得られるという点にあります。
教え   教えの中心はマンダラ思想です。世の中にはいろいろな宗教や思想がありますが、よく観察してみると一養底に共通の原点があります。この原点が大日如来という仏様です。一切の諸尊は、それがお薬師さま、観音さま、お地蔽さま、お不動さまであれ、すべて大日如菜の身を変えたお姿(応化身(おうけしん))なのです。
したがって、もとめるところは広い視野で物を見ながら深考えて、敬虔(けいけん)に力強く、人生を生き切り、平和な社会を作ることです。
読誦(どくじゅ)するお経   般若理趣経(はんにゃりしゅきょう)、陀擢尼(だらに)、般若心経、親音経などをお誦み致しております。
光明真言(こんみょうしんごん)  オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マ二ハンドマジンバラ ハラバリタヤ ウン
大日如来智慧(ちえ)の光によって私たちの心に光明がさし込む」


徳川御膳所



 当寺は、享保十三年(1728)春、八代将軍吉宗が鷹狩りのおり、御膳所となり休息と食事をしたところです。以前は、旧本堂の西側奥に、寺社奉行の命で改修した「御成りの間」がありましたが、建物が古くなったため、昭和四十二年改築のときとりこわされ、その跡に記念碑が立てられました。
 鷹狩り は、飼いならした鷹を放って獲物を捕える狩猟法で、おもて向きは、将軍の遊びでしたが、幕府による江戸近郊の農業・治安の維持の役割をはたしていました。吉宗は、五代将軍綱吉のとき廃止されたこの制度を復活し、中野など江戸近郊六か所の鷹場を指定しました。
 指定された村むらの農民たちは、鷹場役人に監督され、日常、野鳥の見張りや鷹場の維持に使役されるほか、農作業や家の修理にいたるまであらゆる制約を受けていました。
 将軍来遊のときの古い記録によれば、食事の準備から道路や橋の整備など、地元の人たちが大きな負担を強いられていたことがうかがえます。


東福寺の築山



 東福寺の山門を入り敷石の右側に造成された築山は、弘法大師一千百五十年のご遠忌を記念して両界曼荼羅の作製、常夜灯の設置と共に築造されたものです。
 この築山は、遠く鎌倉時代より当地に伝えられている江古田の獅子〇に、深いゆかりがあります。獅子舞は〇〇権現(御嶽神社)と東福寺の杜僧によって伝授されたもので、鎮守氷川神社の祭日には、大正初年まで子の築山の付近に盛土して造られた舞台にて演舞したものであって、当日は大銀杏の高い梢から四本の綱が張られ、ほおずき提灯が並んで明るく綺麗であった。別名祈祷獅子と呼ばれている獅子の舞は、悪魔を降し、災難を除き、五穀豊穣を祈り、氏子の安泰と繁栄を祈願して、盛況な舞は後半夜まで続いた。
 江戸時代には、将軍・大名が江古田付近へ鷹狩灣に見えた時に、東福寺にて休息し食事をしたことが伝えられ、旧本堂のお成りの間の跡に「徳川将軍御善所跡」の石碑が建てられているが、その時江古田の獅子舞をご覧になったといわれています。このようなことから獅子の舞うときには「御用」と記された高張提灯が掲げられ、現在もつづけられています。
 山門を入り正面階段の左側の高台に、昭和四十八年に荘厳な鐘楼堂が再建されましたが、梵鐘の四面には江古田の獅子舞に付随している四神を模写して彫刻されています。
 四神とは天の四方を守護する方角の神として、古代に中国・朝鮮から我国に渡来したもので、築山東の方の青い石は 「青龍」で宮位を、西の方の白い石は「白虎」で福禄を、南の方の赤い石は「朱雀」で無病を、北の方の黑い石は「玄武」で長寿を意味する貴重な地相を表現しているのです。
 大相模の土俵の上にあ屋形に青房・白房・赤房・黒房などがさがっていますが、特に黒房にあたる黒石の玄武は亀のことですが万年といわれ長寿の神です。この黒石はさざれ石といって日本の国歌にうたわれ、「さざれ石の岩をとなりてこけのむすまで」と長寿を表現した貴重な歌詞になっています。
 築山造成について経緯を述べたのですが、この四神型の築山の周囲には牡丹が植えられました。鐘楼堂付近から築山を眺めて、牡丹に唐獅子といわれる如く、咲き乱れた牡丹園の中で三頭の立ち獅子が平和を祈りながら楽しく舞う光景を想像していただければ幸です。

〇は判読できなかった。


大師堂


鐘楼


山門








◆江古田二丁目公園



フェンスの向こうが公園。








◆古塚(稲荷塚・狐塚)

江古田二丁目公園内にある。
説明板などは見当たらなかった。

2017/11/04 江古田散歩 07 延命地蔵尊/丸山塚公園/庚申塔/金塚/豊玉氷川神社 - ovanの社会科見学
この時に行くのを断念した場所になる。



google mapのマークはちょうどおじさんが居る辺りになるかな?








◆江古田しいの木公園









◆第三江古田アパート

都営住宅。











続く。