2021/02/11 中板橋散歩 11 大谷口中央通り/板橋区大谷口地域センター/西光寺/庚申塔/丸彫地蔵菩薩像/大谷口給水所

ここでもまだまだ南東へ進み大谷口中央通りに出る。



大谷口中央通り









板橋区大谷口地域センター

板橋区の施設で集会室などが借りられる。
大谷口地域センター・管内集会所|板橋区公式ホームページ








◆西光寺



 御本尊観世音菩薩。宗派真言宗豊山派。宝樹山盛徳院と称する。
 古くからこの地にあった一観音堂に大野清右衛門が田畑を寄進し、堂宇を建設したことから始まるという。「新編武蔵風土記」では、開山を承応三年(1654)8月寂の宥音とするが、当寺所蔵の古文書では、開山を慶安四年(1651)6月寂の覚印とする。いずれにしても、当寺が1640年代には開山されていたことは明らかである。
 明治三年住職広沢賢隆は、境内に一棟を建てて寺子屋を開設し、同9年に上板橋学校が開設されるまで近所の子供に教育をおこなった。
 昔話で有名な、しろかき地蔵(石造・高47cm)は、現在は同寺境内に安置されている。同地蔵は、昭和62年度の板橋区登録有形民俗文化財(信仰)に認定された。


大谷口の代かき地蔵



 そのむかし、大谷口村に日頃から仏様を深く信仰していた心やさしいお百姓さんがいました。明日は村中あげて一せいに田植えをすることになっていました。お百姓さんは、明日の田植えに間に合うように、汗を流して一しょうけんめい働きました。しかし、あたりがうす暗くなっても、代かきは半分もできていませんでした。お百姓さんは、あぜに立って、もう暗くなってしまった田んぼを眺めながら「ああ困った、明日の田植えをどうしよう・・・」と、大ため息をしていると、どこからともなく若いお坊さんがちかよってきて「何かお困りのごようすですネ、代かきが終えなかったんですか・・・」と、やさしく話しかけてくださったかと思うと、いずれへか去っていってしまいました。
 一夜あけて、田んぼに来てみると、びっくりしました。さしもの広い田んぼは、きれいに代かきがすまされて、朝日がさんさんと田の面を照らしていました。驚いたお百姓さんは、あたりを見わたすと、田んぼの泥土がてんてんと、田から丘の草原につづいているのに気づきました。泥のあとをたどると、丘の小さなお堂にまでつづいています。お百姓さんは、不思議に思いながら、お堂のとびらを開けてみますと、中に立っていらっしゃる石のお地蔵さんは、腰のあたりまで泥だらけでした。
 お百姓さんは、お地蔵さんが一晩のうちに代をかいてくださったにちがいないと思って涙を流してお礼を申し上げました。お地蔵さんはやさしいお顔をして、お百姓さんをじっと見おろしていました。
 大谷口村の人びとは、それから後、このお地蔵さんを「代かき地蔵尊」とあがめて、あつくお祭りをいたしました。


六地蔵


石塔等


山門








庚申塔









◆丸彫地蔵菩薩

作業しているおじさんがいらっしゃったので、そこだけ白抜きにした。









大谷口給水所

『高さ約33mの鉄筋コンクリート造の円筒の上に大小二つのドームが載る意匠を特徴とする。1931年に完成し、配水塔としては1972年7月31日まで使用された。完成当時の周辺は畑田圃が多く、近隣上板橋村各戸への給水ではなく王子・滝野川方面の製紙工場への給水が主であった。
設計者は駒沢給水塔などと同じく中島鋭治とする説が長らく語られてきたが、没年から逆算すると計算が合わず、現在は中島洋吉の設計とする説が有力である[1]。
当時の技術上の問題から自然流下による給水方法をとらざるを得なかったため、建設にあたっては高台の敷地が選ばれた。そのため使用停止後も中野通り沿いの地元では良く目立ち、「大谷口水道タンク」として板橋区の景観百選に選定されるなど、地域のランドマークとして親しまれてきたが、老朽化と給水所の再整備のため2005年6月に取り壊された。
跡地の給水所には、2011年3月に旧配水塔を模したデザインのポンプ棟が完成した。
同時期に建造された、意匠を同じくする配水塔である野方配水塔は現存している。また、千葉県松戸市の栗山浄水場にもよく似たデザインの配水塔がある。 』
大谷口配水塔 - Wikipedia

古い方も見たかったなあ。









続く。