中山道、新板橋で石神井川を渡る。
氷川町氷川神社でお参り後は石神井川に沿って南西へ進む。
◆首都高速5号池袋線
こちらはくぐらずに右へ曲がる。
◆新板橋
下は石神井川。
◆氷川町氷川神社
こちらのページでは下板橋氷川神社となっていた。
下板橋氷川神社|板橋区氷川町の神社、下板橋宿の鎮守
神楽殿
富士塚は、一般的に、富士山へ登拝することを目的に組織された「富士講」の人びとによって、富士山を模して造られた、ミニチュアの人造富士山のことであり、富士講が爆発的に広がった十八世紀以降に、各地で盛んに造られました。
氷川町の氷川神社富士塚は、弘化四年(1847)の 奉納石碑や、安政二年(1855)の塚頂部の石祠が板橋宿の人びとにより建てられていることから、少なくとも十九世紀中頃には築造されていたものと考えられます。 当富士塚を造成したのは、富士講中興の祖である伊藤身禄(食行身禄(じきぎょうみろく))の高弟で、板橋宿の平尾宿に住んでい た永田長四郎(心行長照)を講祖とする永田講中です。 同講は、板橋宿中宿・平尾宿や上板橋宿の一部の人を中心に構成されていました。
当富士塚は、麓から山頂にかけて登山道が設けられ、 それに沿って石碑が建てられており、富士山の溶岩である黒ボクが一部使用されています。塚上には、境内地の整 備にともない、浅間社などの末社が集められています。
現在の富士塚は、昭和二年(1927)から同八年かけて行われた中山道(現:国道17号線)の道路幅拡張工事によって、築造時の「富士塚」東側にあたる部分が削られ、同四十八年の玉垣建立時に土留めが施された状態となっています。
なお、区立郷土資料館には、永田講が使用していた 「富士永田講関係祭具一括」が収蔵されており、区指定有形民俗文化財となっています。 当富士塚は、板橋地域の鎮守である氷川神社の境内にあり、地域の富士山登拝講の歴史や民間信仰などについて考察を行う上で貴重な史跡であり、平成二十四年度登録文化財となりました。
富士塚、社
続く。