「根の碑」からは細い路地を南下。
東京メトロ千川駅でゴール。
◆第二富士乃湯
2021/02/11 にも写真を撮ったところ。
2021/02/11 中板橋散歩 12 大谷口中央通り/第二富士の湯/庚申塔/大黒湯/ロード大谷口/千川駅 - ovanの社会科見学
この案内板の前の道は、千川(せんかわ)上水の上に作られ ています。
千川上水は、元禄九年(1696)、小石川御殿 (文京区白山)や湯島聖堂などの将軍御成(おなり)の場所に飲料水を供給するために作られました。
その流路は、現在の保谷市新町の境橋で王川上水から分水し、練馬区の千川通り沿いに流れ、板橋区を通り、中山道に沿って西巣鴨へ達するものです。そこからは、木樋(もくひ)という木製の水道管で、 先の御殿などへ給水されていました。
しかし、宝永四年(170)以降は、練馬や板 橋地域の農業用水として主に利用されるようになり、流域の新田開発に大きく貢献しました。明治 時代には、東京市内の飲料水として再度使用された時期があります。また水車の動力源としてもこの水は活用されました。 その後、水質の悪化や近代水道の発達により、 明治四十年(190)に飲料水としての使用が停止され、昭和以降、暗渠(あんきょ)化が進みました。
平成元年(1989)からは、都の清流復活事業により、旧流路に水が流されています。
この都電7508号車は.昭和61年3月まで都内でただ一つの都電路線である荒川線を走っていた車両です。
昭和37年12月に製造され、東京都の発展とともに都内を走り続け、その使命を終るまでに70万キロメートルを走り、延べ1,224万人の人を運びました。
都電の全盛期には 都内に40系統の路線があり1,192両の車両が都民の足として利用されました。
今は、荒川区の三輪橋から!新宿区の早稲田までの一系統(12.2キロメートル)ですが、沿線の人々からは昔と変らず親しまれ.毎日の通勤、通学やお買物に利用されております。
板橋区では、このたびこの車両が現役を退くのを機会に交通局から譲り受け、子供たちの施設として設置したものです。
車歴
都電番号 7508号
昭和37年12月 7日 新造 青山車庫配属
43年10月 5日 転属 荒川車庫配属
52年10月21日 ワンマン運転開始 荒川車庫配属
61年 3月31日 廃車
走行距離 699.987キロメートル
◆千川榛名神社
當社は江戸時代この地が境窪といわれた頃群馬縣榛名山麓にある延喜式内の古社榛名神社のご分霊を迎え、「土地の守り神」として厚く信仰して今日に至ったのであります。
◆千川彫刻公園
彫刻家、中野素昂(なかのそこう)のアトリエ跡地に造られた公園とのこと。
参考
千川彫刻公園 | 全国観光情報サイト 全国観るなび(日本観光振興協会)
中野蒋さんを調べてみたのだが、情報が無かった。
空を見あげる
作 中野素昴
写真、頭が切れてしまった。
近々また付近を通る予定なので撮ってくる。
『1897-1985 昭和時代の彫刻家。明治30年3月21日生まれ。昭和3年帝展に初入選。7年日本美術協会展で奨励賞。16年新文展無鑑査,31年より日展に依嘱出品,40年会員となる。人体塑造のほか木彫も手がけた。昭和60年10月18日死去。88歳。福岡県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。本名は昂(たくみ)。作品に「希望」「大気」など。 』
◆千川駅前商店会
前日の勤務がいつもと違っていたのでものすごく疲れていた。
ついでに花粉が飛びまわっていてつらかった・・・。
それが無ければお散歩日和だったのになあ。
いつもの半分しか散策できなかった。