2021/02/23 赤羽散歩 02 ふれあい館脇の坂道/島下公園/かなくさ坂/島下公園前歩道橋/善徳寺/冨士見坂の碑・大塚古墳

細い路地を東へ進み本郷赤羽線へ出て北上。



◆ふれあい館脇の坂道

坂上
ひとつ前の日記、島下ふれあい館脇にあった坂道。
特に名前などはついていなかった。



坂下。






◆島下公園



下記、島下公園前歩道橋から撮った公園。






◆かなくさ坂

坂下。



坂上



 この坂は、島下公園(赤羽西六-十-十二)の北側を東の方へ登る坂です。名前の由来については定かではありませんが、鉄分を多く含む湧水の影響で池土が赤錆色に染まったことを、かなくさ(金属の匂いや味がすることを金臭いといいます)と表現したのではないかという説が知られています。






◆島下公園前歩道橋

下は本郷赤羽線








◆善徳寺


馬込家墓

 善徳寺の墓域内には、江戸時代、大伝馬町の御伝馬役(ごでんまやく)名主として活躍した馬込家の墓があります。
 御伝馬役とは、江戸伝馬役と呼ばれるもので、大小の伝馬町と南伝馬町・四谷伝馬町が5街道と江戸府内近郊へ人馬を継ぎ立てる夫役(ぶやく)をいいます。町名主の馬込家は代々、この運営にあたりました。また、他の町で同様の役職にあたる名主家とともに、名字・帯刀を許可され、町名主の筆頭として年頭に将軍の御目見が許されていました。
 馬込家は、遠江国敷地郡(ふちぐん)馬込村(浜松市)の出身といわれ、本名を平八、当主になると勘解由(かげゆ)と称していました。馬込という家名は元和元年(1615)五月、大坂落城の後、浜松宿の馬込橋まで徳川家康を迎えた時、500人の人足を引き連れて迎えたことを喜んだ家康から与えられたと伝えています。
 最初、菩提寺増上寺でしたが、その後、増上寺開山聖聡の弟子の楽誉聡林が開基した善徳寺の檀家となりました。墓地は、善徳寺が数度の火災を受けて、日本橋馬喰町・浅草松葉町へと移転したのに伴って移されましたが、関東大震災によって罹災したため、昭和二年(1927)四月に赤羽へ移転した善徳寺とともに現在地へと移りました。


鐘楼


山門






◆冨士見坂の碑・大塚古墳



だいぶ風化しているね・・・・。



 この坂を富士見坂という。このあたり、昔は人家のない台地で、富士山の眺望がよかったところからこの名がついた。江戸時代の「遊暦雑記」には 「左右只渺茫(びょうぼう)とたる高みの耕地にして折しも夕場西にかたぶきぬれば全景の芙嶽を程近く見る、比景望又いうべき様
なし」と記されている。
 かつてこの近くに周囲500余メー卜ルといわれる大塚古墳(円墳)かあったが、いまは見られない。







続く。