2021/02/23 赤羽散歩 06 亀ケ池弁財天/静勝寺/静勝寺の坂/中坂/三日月坂/弁天坂

このあたりはほぼ赤羽駅近く。
少し南下した後、坂だらけのエリアを徐々に東へ進む。



◆亀ケ池弁財天



 亀ヶ池辯財天は、地元住民で組織されている、後援団辯天講の皆様方のご協力に依って維持管理をしております。
 亀ヶ池辯財天は、宗教法人静勝寺の鎮守として、同寺の辯天堂に安置されてある亀ヶ池辯財天を勧請して祀っています。
 毎年四月初旬の辯天例大祭には、静勝寺住職が祈願尊師を勤め、家内安全諸願成就の祈祷札を講中及び奉納の皆様に配布しています。
 元旦初詣、二月の節分会等、地元の繁栄と平和のための諸行事を執り行います。
 昭和五十五年、静勝寺のご後援ご指導のもと解天講及び地元の関係者の誠意ある信仰心により、本寺静勝寺の辯天堂に安置しております尊像を写した木彫りの分体を、斯道の大家「西山如拙翁」に依頼して、昭和五十五年四月一日弾天例大祭に御遷和開眼の法要を営み、地元繁栄築と家内安全諸願成就御守護の神殊財天様俳像を御堂に祀ってます。
 地元の守り神様として皆々様の家内安全·商売繁盛。交通安全。良縁·安産息災。入試合格等ご参拝の上、御祈祷御祈願ください。
 特に昭和五十八年十月吉日、亀ヶ池の中には長寿の亀子宝安産雑天様を安置致しました。
 どうぞお願いが成就するようご参拝ください。
 辯天講は今後も一層積極的に管理御守護に努めて参る所存であります。
 皆様方のご理解と御支援御愛護宜しくお願い申しあげます。




名前通り亀がたくさん。
気持ち悪いくらい居た。


                     






◆静勝寺


稲付城跡

 稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯にあたり、太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。
 昭和六十二年(1987)、静勝寺南方面でおこなわれた発掘調査によって、永禄年間(1558~1569)末頃から天正十年(1582)頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。
 また、静勝寺に伝存する貞享四年(1687)の「静勝寺除地検地絵図」には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲付城の城塁配置を推察することができます。
 この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道上の主要地点をなしていました。稲付城は、その街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城岩槻城を中継するための山城として築かれたのです。
 道灌の死後、この城には孫の資高が居城し、後に後北条氏に仕えました。その子康資は後北条氏の家臣として岩淵郷5ケ村を所領しました。
 明暦元年(1655)に道灌の子孫太田資宗は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清(すけきよ)の法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めました。
 その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌の木像を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。


稲付城跡

 稲付城跡は、武藏野台地北東端部の標高21程度の舌状台地先端上に立地する自然地形を利用した中世の城館跡です。文化・文政期の地誌『新編武蔵風土記稿』にも「堀蹟」として登場します。
 現在静勝寺が所在する平坦面に主郭があったと考えられています。北面と東西面は崖画で、南側は台地が続き平坦な地形になっています。
周辺からは、発掘調查によって幅約12m、深さ約6mの空堀の跡等が検出され、その際に十六世紀前半頃の遺物が出土しました。
 静勝寺には室町時代の武将、大太田道灌の木造坐像が所蔵されています。寺伝によれば、城はこの道灌による築造とされています。今のとこ
ろ築城した人物を特定する明確な根拠はありませんが、荒川を前面にひか元北方の防御を重視した城の構造と、発掘調査の成果などから、南側に勢力をもった扇谷上杉氏にかかわりのある城館であったと推測されます。道灌が扇谷上杉氏の家宰であったことから、道灌築城の可能性も考えられます。


木造太田道灌坐像

 右手の道灌堂の厨子内には、太田道灌の坐像が安置されています。像は、道灌の命日である七月二十六日にちなんで毎月二十六日に開扉されます。道灌堂は道灌の250回忌にあたる享保二十年 (1735)七月に建立され、厨子は350回忌にあたる天保六年(1835)七月に製作されました。
 太田道瀧(1432~1486)は室町時代の武将で、扇谷上杉家に仕えて三十余度にも及ぶ合戦に参加したといわれますが長禄元年(1457)四月に江戸城を築いたことで知られています。
 像は頭を丸めており、道灌が剃髪した文明十年(1478)二月頃から同18年に没するまでの晩年の姿を映しています。体には胴服を着けており、左脇には刀一振が置かれています。正面を向き、右手で払子(ほっす)を執って、左手でその先を支え、左膝を立てて畳座に坐しています。像高は44.5センチ、構造は檜材の寄木造です。頭部は前後二材矧ぎで玉眼を嵌入し、差首としています。胎内に納入されていた銘札によると、元禄八年(1695)静勝寺第6世の風全恵薫によって造立され、以後、六回の修復が施されました。現在の彩色は、昭和六十二年(1987)四月に行われた修復によるものです。
 像は道灌が没してから200年以上も後に造立されたものではありますが、その風貌を伝える唯一の木像として大変に貴重で、平成元年(1989)一月に北区の指定有形文化財に指定されました。


御影堂



辯天堂



境内社


南側階段


山門

                     






◆静勝寺の坂

坂下。



坂上
標識などは見当たらなかった。
こちらに詳しく載っていた。
北区の坂道静勝寺の坂|東京都北区

                     






◆中坂

坂下。



坂上
標識などは見当たらなかった。
こちらに詳しく載っていた。
北区の坂道中坂|東京都北区

                     






◆三日月坂

坂上



坂下。



 道濯湯から東南に登り中坂へでる坂です。道濯湯のあたりに、大正三年(1914)帝国火工品製造所(導火線工場)ができ、この工場のためにできた坂といいます。工場へ往来する馬車などでにぎわいましたが、大正四年五月に工場は爆発事故で焼失しました。その後このあたりは住宅地となり、坂を登りきった北側あたりに三日月茶屋ができました。坂名はこれに由来しています。また、道濯湯が開業したことから道濯坂とも呼ばれています。

                     






◆弁天坂

坂下。



坂の途中にあった。
中にはお地蔵様がいらっしゃった。



こちらも坂の途中にあった。
着物の仕立て直し屋さんのようだね。
着物の仕立て、和服の寸法直し、仕立て直し。小久保和裁研究所



坂上







続く。