2021/02/27 豊島長崎散歩 04 椎名町サンロード/長崎八幡神社/長崎御嶽神社/長崎神社/帝国銀行椎名町支店跡/舟型浮彫地蔵尊・長崎不動尊/金剛院

西武池袋線東長崎駅東側エリアをさらに東へ進み同じく椎名町駅方面へ。



椎名町サンロード

商店街♪









◆長崎八幡神社



 当長崎八幡宮は、鎌倉の鶴岡八幡宮より御靈を受けた分社です。
御祭神は、應仁(おうじん)天皇比売神神功(ひめがみじんぐう)皇后です。
天皇陛下御即位十年を記念して、当八幡宮の社殿境内地の平成大改新を行いました。
家内安全・開運.・厄除・諸願成就・等大神様の御加護をいただける様、日々を感謝してお詣り下さい。












◆長崎御嶽神社



祭神 
櫛真智命(くしまちのみこと)  学閂の神
大已貴命(おおなむちのみこと) 農耕・漁業・商業開運・招福の神(大国様)
福の神 (えびす様)
少彦名命(すくなひこなのみこと)福の神(えびす様)

 此の地域で農業が盛んに行われた頃、農家の人達が信仰しておりました。
 特に旱魃(かんばつ)の時は、村人達が奥多摩御岳神社(現青梅市)に参拝して、七々代(ななよ)の滝の水を持ち帰り 「雨ごひ」の祭りを行いました。
 霊験あらたかな神として、 現在も学問特に進学・受験の祈願・家運隆盛・商売繁昌の御願をかけて、信仰を高めております。










◆長崎神社



 長崎神社の創建年代は不詳ですが、元来、櫛名田比売命を祀り、武州豊島郡長崎村(現在の豊島区長崎・南長崎・千早・要町・高松・千川と目白4・5丁目、西池袋4・5丁目、池袋3丁目の一部)の鎮守として信仰を集めました。江戸時代の中期には十羅刹女社とも称せられ、境内には享保十八年(1733)に奉納された「十羅刹女」と刻まれた手水鉢が残されています。隣接する金剛院は、明治元年(1868)の神仏分離令まで、長崎神社の別当寺でした。
 その後、明治五年(1872)には村社と定められ、同7年須佐之男命を合祀して長崎神社と改称し、今日に至っています。精緻な彫刻物を有する本殿は嘉永二年(1849)に、拝殿は明治32年に建立されたもので、旧社殿は絵馬を納める額堂として使われています。ほかに山岡鉄舟揮毫の神社額と祭礼幟などがあります。 なお、元禄年間(1688~1704)に始まると伝えられる獅子舞は、五穀豊穣と悪病退散を願って江戸時代から長崎村の人々により伝承されてきた区内唯一の民族芸能として、平成四年に豊島区民俗文化財に指定されました。毎年五月の第二日曜日の祭礼では、氏子会や獅子達を中心とする地元住民により獅子舞が盛大に奉納され、九月の例大祭とともに多くの人々で賑わいます。


小柳稲荷神社



長崎招魂社



楽殿


鳥居


参道入口









◆帝国銀行椎名町支店跡



google mapの挙動が怪しかったのでスマホ画面をスクショ。
案の定、この後マークが無くなっていた。
いろいろ調べるとものすごい場所なんだね・・・・。


帝銀事件
帝銀事件(ていぎんじけん)とは、1948年(昭和23年)1月26日に東京都豊島区長崎の帝国銀行(後の三井銀行。現在の三井住友銀行椎名町支店(1950年に統合閉鎖され現存しない)で発生した毒物殺人事件。
太平洋戦争後の混乱期、GHQの占領下で起きた事件であり、未だに多くの謎が解明されていない。 』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E9%8A%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6


参考
https://ameblo.jp/mikimoto07/entry-12581222658.html
http://www.tokyo-kurenaidan.com/teigin.htm









◆舟型浮彫地蔵尊・長崎不動尊

手前にいらっしゃるのが「舟型浮彫地蔵尊



 この舟形浮彫地蔵尊は、寛政八年(1796)八月二十四日に道標をかねて造立された道標(どうひょう)地蔵尊です。地蔵尊の石中には「念仏供養」、その左右には「北・下板橋道 南・ほりの内道」という文字が刻まれています。ほりの内というのは、杉並区堀ノ内のことです。江戸時代には、宿場町として栄えた中山道板橋区仲宿方面、また厄除け祖師のことを教えてくれています。また、この地蔵尊の御仏体は、江戸城築城の時に使われた石の一部であると言い伝えられています。


長崎不動尊



 このお堂は「長崎不動尊」と呼ばれ、ご本尊に不動明王、脇仏には明王を護る従者である制吒迦(せいたか)、矜羯羅(こんがら)の二体をお祀りしております。不動明王が剣や索(さく)、火焔を備えて忿怒の強い形相を示されておられるのは、煩悩を滅して私たちを救い、降魔を払うためです。
 古くからこの不動信仰が盛んで、ご利益にまつわる霊験も多く伝え残されており、私たちの願いをかなえ、お守りくださる仏さまです。お参りの方は、不動明王真言または法号を唱えてお参りください。
「長崎不動尊」は、昭和二十一年十月に地域の守護仏として、その加護を頂けるよう当地へお祀りされました。また童子に長崎不動講を結成し不動尊の運営と管理にあたってきました。
 このたび堂宇の老朽化に伴い再建建立を発願して、併せて慈悲深い観音菩薩像を造立しました。清浄水にて観音様の御仏体を洗い流しながら、観音菩薩真言、あるいは法号を唱えてお参りください。


ナータくん









◆金剛院



 金剛院は、聖弁和尚によって大永二(1522)年に開創された真言宗豊山派の寺院で、正式には蓮華山金剛院佛性寺という。本尊は、観世音菩薩と勢至菩薩を脇侍として
配した阿弥陀三尊である。開創当時は現境内地から北西方向に800mほど離れた、長崎三丁目の観音堂(現在は当寺の境外仏堂)の位置にあったといわれており、宝永六
(1709)年ごろに当地へ移転した。
 宝暦八(1758)年には、「百字真言梵鏡」と呼ばれる釣鐘が鋳造されている。その後の安政年間(1854〜60)には、寺子屋が開設され、長崎地区の庶民教育の拠点と
なっていたほか、明治元(1868)年の神仏分離令までは長崎神社を管理する別当寺でもあった。さらに、明治三十四(1901)年には、寺内に長崎村役場が置かれていた。
 薬医門様式の山門は、安永九(1780)年に建立されたものである。その装飾は彫りが深く、意匠的にも優れているため、平成六(1994)年六月に豊島区指定有形文化財
なった。
 本堂は、昭和二十九(1954)年に建てられた鉄筋コンクリート造で古典建築の造形を単純化しながらまとめられた点に特徴がある。客殿は、昭和九(1934)年の建築で、
客殿の主室に洗練された造作の座敷飾を備えてあるのが特徴である。これらの点が評価され、二つの建物は平成二十六年に国の登録有形文化財となった。
 境内にある2基の板碑のうち、1基には阿弥陀如来の画像が、もう1基には永享十二(1440)年の年号が刻まれている。また、宝永四(1707)年に長崎村の村人が造立し
庚申塔も1基残されており、いずれも地域の歴史と文化を伝える貴重なものとして、豊島区登録有形文化財になっている。


大師堂


石塔・等

奥の2枚は板碑であろう。


石塔・等

庚申塔が一つ確認できた。


道祖神


おもかる地蔵尊



「石占」お伺い おもかる地蔵尊
■願い事の行く末をみてくれる「おもかる地蔵」
 万葉集にも登場する石の占いは、石を持ち上げたときの軽重感で吉凶を占うものですが、この石に厄除けのご利益も加わって建立されたのが「おもかる地蔵」です。
■お同いの仕方
一、お伺いする前に
  まず合掌して「お体に触れさせていただきます」とお地蔵様にお伝えし、お地蔵様のご真言「おん かかかび さんまえい そわか」とお唱えします
二、まず重さを確認する
  次にお地蔵様を、ゆっくりと丁寧に持ち上げて、尊像の重さを覚えておきます。 (上の方まで強くあげないでください)
三、次に「願い」を伝える
  私のお何いに重くなってお答えください」もしくは「軽くなってお答えください」と、軽重の選択をしてから、お伺いしたいことを合掌してお地蔵様にお伝えします。これは真剣に行ってください。
四、本番です
  再びお地蔵様を持ち上げます。このとき例えば「重くなってお答えください」とお願いしていた場合、お地蔵様の体が最初に体感した重さよりもずっしりと重くなれば、お地蔵様の答えは「はい」です。重くならなければ「いいえ」ということです。
 「軽く」とお願いした人は、軽くなっていれば「はい」。軽くならなければ「いいえ」です。
  あまり変わらないという方は「まだ、その時期がきていない」ということです。
■最後にどのような状態であっても「ありがとう」の感謝の気持ちをお伝えして終わりにしましょう。


山門









続く。