西音寺まで旧岩槻街道を北上。
少し戻って東十条駅北口に行った後線路沿いに北上。
明治三十三年の火災により創建年代は不詳ながら、新編武蔵風土記稿に「同宗(新義真言宗) 稲付村普門院末、隆照山桂徳院と号す。本尊勢至」と記載され、江戸時代中
期に建立。本尊は勢至菩薩本堂のほかに、境内には六角堂(勢至堂)の勢至菩薩、又、おびんずる様が把ってあります。
特におびんずる様は「撫仏(なでぼとけ)」とも呼ばれ、おびんずる様の身体を触って、その手で自分を撫でると 病気が治り、頭も良くなり、痛みもなくなると言われ
ています。
どうぞ境内に入り、お参りください。
本堂の本尊でもある勢至菩薩が祀ってあります。
勢至菩薩は 阿弥陀三尊の観音菩薩とともに阿弥陀仏の脇侍として知られています。
「大勢至菩薩」、「得大勢菩薩」の別名もあり力が強く、足を踏み下ろすと大地が揺れるという怪力の持ち主です。
得大な智慧の勢いをもって、直路(真っすぐな道)を示し、極楽浄土へ至らしめるという徳目を備えています。
※お彼岸、お盆等、当寺の行事中に開扉します。
おびんずる様
正式には賓頭虚尊者(びんずるそんじゃ)。お釈迦様の弟子、十六羅漢の一人で神通力起能力)がとても強い人だったと言われています。
俗に「撫仏(なでぼとけ)」とも呼ばれ、おびんずる様の身体を触って、その手で体を撫でると病気が治り、頭も良くなり節々の痛みも軽くなると言われ深く信仰されています。どうぞ撫でて、お参りください。
地蔵尊
車が停められていてこの角度でしか撮れなかった。
山門
車が停まっている脇に上記の地蔵堂がある。
埋蔵文化財調査中とのこと。
十条冨士塚
十条冨士塚は、十条地域の人々が、江戸時代以来、冨士信仰にもとづく祭儀を行って来た場です。
現在も、これを信仰対象として毎年六月三十日・七月ー日に十条冨士神社伊藤元講が、大祭を主催し、参諾者は、頂上の石祠(せきし)を参拝するに先だち線香を焚きますが、これは富士講の信仰習俗の特微のひとつです。
塚には、伊藤元講などの建てた石造物が、三十数基あります。銘文によれば遅くとも、天保十一年(1840)十月には冨士塚として利用されていたと推定されます。これらのうち、鳥居や頂上の石洞など十六基は明治十四年(1881)に造立されています。この年は、冨士講中興の祖といわれた食行身禄、本名伊藤伊兵衛の百五十回忌当りました、石造物の中に「冨士山逢拝所再建記念碑」もあるので、この年、伊藤元講を中心に、塚の整備が行われその記念に建てたのが、これらと思われます。
形状は、古墳と推定される塚に、実際の富士山を模すように溶岩を配し、半円球の塚の頂上を平坦に削って、富士山の神体の分霊を祝る石詞を置き、中腹にも、富士山の五合目近くの小御岳神社の石を置いています。また、石段の左右には登山路の跳も残されており、人々が登頂して富士山を遥拝し、講の祭儀を行うために造られたことが知られます。
google mapの航空写真
十条富士神社と書かれている場所がビニールシートになってしまったところ。
こちらの写真では木がたくさんあるね。
道路の拡張工事で調査の後は無くなってしまうのかな?
と、思って調べてみたら移設するみたいだね。
参考
十条地区-十条冨士塚 | 東京都都市整備局
https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/dainiseibi/tikubetu/jujo/pdf/fujizuka_seibi_r2_henko.pdf
◆十条台古墳群
第3遺跡まであるが、現地には説明板などなく、なんらの遺構も残されていなかった。
◆東十条駅北口
往昔此の地疫病が流行医術現代の如く発達でせさりし当時あってなすべき術なく村民の伝染病による苦難は容易でなかりきここに出羽の国の羽黒山中の新澤不動明は霊験ありと云うこれによって住民十條にこれを勧請せりと
特に4月15日をトとして「祈祷」するとし村田一斉に農事を休み「ホンゼン」を作り村人池にて「水ごり」を取りホラの貝を吹き鳴らし疫病災難より悪魔払いに全村を巡廻せる行事年々行われ近年に到れる しかるに急激なる都市の発展にともない不動様の敷地ならびに池は鉄道線路敷地と化せしにより馬坂の下の現在の平和橋となりたる旧地より西音寺地内の当地に移転安置する
◆清水坂
坂下。
坂上。
十条の台地から稲付の低地に下る岩槻街道(旧日光御成道)の坂である。昔はけわしく長い坂道だったので十条の長坂などとも呼ばれた。切り通しの崖からはたえず清水が湧き出ていたので、清水坂の名が付けられた。現在は崖が削りとられて、その跡に児童遊園が設けられているが、そこは貝塚遺跡でもあった。
日光御成道散歩
日光御成道散歩は、飛鳥山公園から岩淵水門までの約5.5kmのみちのりです。別名日光御成遣と呼ばれた岩槻衝道をたどり、赤羽駅から、一路荒川をめざし、下流域の水害を防ぐ為に建設された荒川放水路沿いを行く散歩道です。
日光御成道と将軍
日光御成道は、王子から岩槻を経て幸手で日光街道と合流する奥州(白光)道中の街道として重要な道でした。特にこの道が五街道についで重要視されでいたのは、将軍日光社参の時に将軍ー行の通る御成街道であったためでした。将軍の日光社参というのは、将軍かが4月17日の家康回忌などに日光東熊宮に参詣することですが、その行列はどても華やかだったそうです。しかし、その費用は莫大なもので一度社参すると幕府の財政を圧迫するほどでした。また、将軍日光社参の年にあたると道中筋では代官の陣頭指輝のもと、村民総動員の形で御用を勤めたため、これに対する沿道の名主や村人達の負担も大変なものでした。
続く。