2021/04/08 西尾久散歩 08 小台公園/小台天祖神社/小台七庚申/宮城公園/宮城氷川神社/小台町民会館

荒川と隅田川に挟まれた地域。
住所は足立区小台となっていた。
今回は行かなかったがもう少し東へ歩くと日暮里舎人ライナー「足立小台駅」がある。



◆小台公園








◆小台天祖神社



天照大御神(あまてらすおおみかみ)
 天照大御神は、たくさんの神々の中でもっとも尊い神さまとして信仰されています。
 『古事記』や『日本書紀』によろと、 日本の国土や神々を生んだ伊邪那岐命伊邪那美命御子神として誕生しています. また、神々の住む高天原をおさめ、つねに私たちの生活をみまもってくださっています。
 とおい昔に、 皇室の祖先が、高天原か5この国に降って来る時に、天照大御神から生きるために必要な稲穂や、国土が末永く発展すろように、 との祝福の
言葉をいただきました。それ以来、皇室では天照大御神へのおまつりを続けています。はじめは、宮中だけでおまつりしていました第十一代の垂仁天皇の時に伊勢の神宮がつくられ、さらにていねいにまつりが続けられています。
 天照大御神は、またの名を日神(ひのかみ)ともいい、太陽と密接な関係があります。こんなところから皇室の御祖神であるとともに国民の大親神として信仰
されてきたのです。
 全国の家庭の神棚には、氏神さま(地元の神さま)とともに必ず天照大御神がまつられています。
 天照大御神をまつっている神社には、天祖神社神明社などがあります。

伊邪那美命(いざなみのみこと)
 伊邪那美命(いざなみのみこと)は伊那那岐命(いざなぎのみこと)と配偶されろ女神さまです。神話の中では最初に夫婦神として登場する神であって、 夫婦の愛情と性交をつかさどる神とし、教々の国土と人々を生成しました。
 伊邪那は『誘う』意味、岐は『男性』美は『女性』で男女たがいに誘い合って交合の事始めとなった神である事はよく知られいます。
 天神 (あまつかみ)の命により、国土を造り固まらせんと、 天浮橋(あめのうきはし) に立って天沼矛(あめのぬぼこ)をおろして、 かきまわして引き上げた所、矛の先端かち滴る潮から淤能碁呂島(おのころしま)ができました。 この島へ二神は降臨され、広大な八尋殿(やひろどの) を建て夫婦の契りを結んだのです。
 始めに、本州・四国・九州等の八つの島々を生みました。 これが大八島国(おおやしまのくに)つまり日本の国土のはじまりです。続いて風の神・木の神・山の神・野の神が生まれ、国土生成基礎となりました。

天祖神社(てんそじんじゃ)
天照大御神は天津御祖の大神と称され日本国氏の総祖神におはします。
生成化育修理固成の御神徳をお持ちになり国民の上に恵みある御光を投げかけ下さる大神として、信仰されています。
当神社は昭和十四年現在の社殿を造り、昭和三十年二月一日 天祖神社として、村社 江北氷川神社より、分祀独立し小台の鎮守神として住民の尊心を専らにして変わろ事なく今日に至る。

於母陀琉命(おもだるのみこと)
於母陀琉命は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)伊邪那美命(いざなみのみこと)の前に生成した大変昔の神さまてす。
オモダルの字義について本居宣長は「足りないところがなく、体すべて整ったという」意味としています。
別に、大地の表面あるいは国土が整った意味とする説、 さらに対偶神の相互の賛美とする説もあります。
中世に第六天と称して淡母陀琉命をまつろ神社が関東各地にありましたが、これは仏教の三十三天中の第六天を淤母陀琉命にあてたことによろものとされています。


水神様


不動明王


鳥居1


鳥居2








◆小台七庚申



 庚中信仰は、中国の道教に基づくもので、日本には平安時代に貴族社会へ伝わり、江戸時代には広く庶民の間に広まった。庚中信仰は、六十日に一度訪れる庚中の日の夜に人間の体内にいる三尸虫と呼ばれる三匹の虫が睡眠中の人間の体から抜け出て、その人間の罪を天帝に密告し、密告された人間は寿命が縮んでしまうというものである。そこ人々は睡眠をとらずに夜通し酒食を共にすることで、三尸虫が体内から出るのを防ごうとした。これが庚申待と呼ばれる風習である。そして、庚申待を継続した記念に皆で庚中塔を建てるようになった。
 ここに集まっている庚申塔は、大正初期にはじまった川放水路の開削工事で水没する運命にあったもので、その運命を惜しんだ下川亀蔵氏が自家の移転と共に
ここに移転安置したものである。
 承応三年(1654)から元文元年(173)に造立された堂々とした造りで、江戸期に庚申信仰が盛んであったことを物語っている。塔には、武州足立郡淵江領宮城村の刻銘があるが、ここの地名をとって、小台の七庚申(足立区登録有形民俗文化財)と呼ばれ、人々の信仰を集めている。
 多くの民俗資料が消減していくなかで、区民の努力によって保護保存されている代表的なものである。










◆宮城公園


ヤエザクラ








◆宮城氷川神社



 当社の由緒は旧記を欠きその詳細は明らかではない。しかし按ずるに南北朝時代(1318~92)の昔武蔵国豊島郡一円を領していた豊島重信の子重中が新たに足立郡宮城の地を開発し、宮城八郎と称して居館をこの地に構えたとき守護神として足立郡宮郷(現埼玉県大宮市)に鎮座する式内社延喜式神名帳記載)武蔵一ノ宮氷川神社の分霊を勧請して祀ったのが始めである。そのころ宮城の地名はすでに足立姫による姫の父足立庄司宮城宰相の名に基づき、地名として存在していたものと考えられるが伝説による人物は、人皇四十八代聖武天皇神亀天平時代(724~48)の人なれば、その実在必らずしも信ずべきにあらず。重中の後四代の子宮城泰業のころ泰業は相州小田原(現神奈川県小田原市)の北條氏に属し、武蔵国岩槻城(現埼玉県岩槻市)にあったが天正十八年(1590)七月北條氏政が豊臣秀吉によって滅ぼされたとき宮城氏も亦北條氏と共に滅びた。しかし守護神は宮城氏没落後も猶この地に鎮座し、江戸時代宮城の地が近世村落として成立したとき、改めて鎮守社として之を祀り、十一面観世音菩薩を本尊とした。蓋し神仏習合によるものである。
 その後、大正二年三月、荒川河川改修工事が行わるるや、工事遂行のため社殿移転の議が起り、その結果現在の宮城一丁目三十八番六号の地に遷座することになった。しかしその社殿も昭和二十年四月十三日の戦災により焼失したので、昭和二十年十月旧地に再建した。しかるにその後該地に宮城公演が設置されることになったので、境内の一部と公園敷地一部を交換して昭和三十年十月現在の地に新築移転することになり、今日に及んでいるのである。因みに境内には伊弉諾尊伊邪那美尊を祭神とする三峰神社、木花咲邪媛命を祭神とする浅間神社宇迦御魂命を祭神とする稲荷神社、が摂社として祭祀されている。

google mapには「宮城氏館跡」のマークがあった。


稲荷社


水神宮


三峯神社/浅間神社



保存樹林 いちょう



 神社には、よくイチョウが植えられていますが、当神社にも古くからイチョウの木があり、保存樹として社で守っています。秋には黄葉し、季節の変化を感
じます。地域の皆さんに愛されるよう大切に守っていきたいと思います。








◆小台町民会館








続く。