2021/04/22 千住散歩 07 富岳三十六景「武州千住」碑/元宿堰稲荷神社/尾竹橋/お化け煙突モニュメント/橋本産業荒川油槽所

隅田川沿いを少し南下したあとは今度は東へ向かって進む。



◆富岳三十六景「武州千住」碑



 江戸時代、ここには荒川(後の墨田川)につながる水路があり、元宿圦と呼ばれました。
 葛飾北斎の「富嶽三十六景武州千住」は、この場所から描かれたと推定されています。堰の前にネギを運ぶ馬子、水路に釣り糸を垂れる人たち、その先に荒川(通称墨田川)への船の出入り口で、付近二十数人の船頭衆が住み、小さな港のようでした。
 その後、公共下水道が整備されたことにより元宿堀はその役割を終え、昭和四十五年に水路は埋め立てられ、平成二十二年の道路改良工事などを経て現在の姿になりました。



武州千住」 千住浮世絵顕彰碑
 江戸時代より千住は風光明娼な名所として多くの文人墨客が集まり、文化的にも進んだ地域でした。葛飾北斎(1760~1849)は、冨獄三十六景で「武州千住」「隅田川関屋の里(せきやのさと)」「従千住花街眺望ノ不二(せんじゅはなまちちょうぼうのふじ)」三枚の作品を、千住地域を題材に描いてます。
冨獄三十六景の題材になった千住を「郷土の誇り」として、次代を担う子供たちに伝えるために、画題の対象地と想定されている付近に顕彰碑を建立しました。











◆元宿堰稲荷神社



当社は、第116代桃園天皇の御代宝暦4年(1755)9代徳川家重将軍の時と伝ふるのみにして其の年代を詳しくせずと云えども古来より当地に鎮座し郷民の信仰厚く年中の祭祀も継続し来りしが昭和20年11月に至って元宿神社飛地境内社編入となりしが本地域に独立神社なく、住民一同はその心から奉祭する社を恋し再度昭和23年2月13日桜木町総鎮守として設立となる。
昭和27年7月10日宗教法人承認、同29年4月10日御社殿改築す。


由緒略記

 稲荷信仰は三峰(お山)と神杉の(験の杉)信仰を基に他の信仰と習合発展せり。副神の大国主命は、国土の開拓、産業の開発、特に医薬の法をもって諸民の延命長寿の増進に霊験を発揮、医薬の道の祖神なり。
 此の町に大正の末、日本最大の火力発電所が稼動、この施設の巨大な四本の煙突(おばけ)は下町千住の名物と広く知られ、総発電量七万五千キロ、大正から昭和三十九年まで激動の時代の基礎を形成。この地域の総鎮守社として、企業発展の守護神と、遠近の人々の厚い崇敬を受け近代文明最先端エネルギー産業を通し、ご神威、神力を万民の上に示され、歳月の過ぎ去る中のご事績は今に伝ふ。


水神祠


いちょう



 墨堤通り沿いにある当社のイチョウは、春の新芽・夏の緑陰・秋の黄葉・冬の落葉と、四季折々の姿をみせてくれます。地域の皆さんの心のよりどころとなるよう、これからも末永く大切にしていきたいと思います。


鳥居


近くにあった地図









◆尾竹橋

左側の船着き場?みたいなのはなんだろう?
情報が無い。









◆お化け煙突モニュメント

後ろの建物は帝京科学大学



お化け煙突モニュメント

 『お化け煙突』は、大正15年1月から昭和38年3月までこの地で操業 した千住火力発電所に設置され、約40年間親しまれてきました。この煙突は4本ありましたが、時には3本になり、2本、1本に見えました。実際 には4本の煙突が、左図のように薄い菱形に配置されていたため、見る角度 によって4本から1本に変わりました。このように場所によって煙突の本数 が異なって見えたのが名前の由来です。
 千住火力発電所は、燃料に石炭を使用していましたが、発電所自体の 老朽化も進んだことから、昭和28年に一部を重油で発電するように変更 されました。さらに技術革新が進み、より大型で効率のよい発電所が建設 されたことから、昭和38年3月に現役を退きました。
 千住火力発電所は、昭和39年11 月に解体され、その後、煙突の一部が足立区元宿小学校で滑り台として残され、このたび帝京科学大学千住キャンパスにモニュメントとして再生することになりました。モニュメント の上半分が実物の煙突です。
 縮尺20分の1のモデルで煙突の見え方を体験して下さい。


お化け煙突モニュメント

真ん中に書いてある説明文は上と同文だった。


足立区立本宿小学校跡地碑


墨田川

すぐ横を墨田川が流れる。
遠くにスカイツリーが見える。









◆橋本産業荒川油槽所

大きそうな企業さんなのに、wikiのページがないね・・・。
公式HPはこちら↓
https://www.hashimotogp.co.jp/







続く。