2021/04/22 千住散歩 09 テ●シ●警備/東京芸術センター/問屋場・貫目改所跡/千住川/芭蕉像/千住高札場跡/一里塚跡

日光街道を超えてまだまだ東へ進む。



◆テ●シ●警備 足立支社

少しお世話になっています。







◆東京芸術センター







問屋場・貫目改所跡

上記、東京芸術センター前の広場すぐ脇にあった。



 旧日光街道の西側にあたるこの場所は、江戸時代に千住宿問屋場と貫目改所が置かれていました。宿場は、幕府の許可を得た旅行者に対して、人足(にんそく)と馬を提供することを義務づけられていました。
 千住宿は、50人、50疋(ぴき)で、元禄8年(1695)に問屋場が設けられ、ここで人馬の手配をしました。街道の向かい側には、馬寄場がありました。
寛保3年(1743)に貫目改所が設けられ、荷物の重量検査のための秤(はかり)が備えられました。馬に積める荷物には制限があり、40貫目(150kg)を積むと本馬、20貫目あるいは人が乗って5貫目の手荷物を積んだものを軽尻と呼び、次の草加宿までの運賃が定められていました。貫目改所は、ここを出ると宇都宮宿までないため、重い荷物を制限内と認めてもらえるよう、賄賂が飛び交ったといいます。
 江戸幕府は、江戸から全国各地への交通網を整備しましたが、なかでも五街道は重要で、道中奉行が直接管理していました。江戸日本橋を出て最初の宿場である、東海道品川宿甲州道中内藤新宿中山道板橋宿、日光・奥州道中千住宿は、江戸四宿(えどししゅく)と呼ばれています。地方と江戸の、文化や産品の結節点であると同時に、江戸人の遊興の地でもありました。旅に出る人を見送るのも四宿まででした。千住宿は、日本橋から2里8丁(8.7km)しかないため、江戸時代の人にとっては、気楽に出かけられる距離だったのでしょう。
 この場所は、問屋場・貫目改所跡として知られていましたが、平成12年(2000)、足立区教育委員会が発掘調査をしたところ、現在より1m程低い江戸時代の遺構面から、等間隔で並ぶ杭穴と礎石が見つかりました。分析の結果、この遺構は2棟の建物からなり、それぞれ問屋場跡と貫目改所跡であると推定されました。また、南東の小石を厚く敷いた部分は、荷さばき場跡と考えられています。
 この場所が、千住宿の重要な施設であったことを示すため、発掘調査で見つかった杭穴と礎石の位置、さらに推定される問屋場・貫目改所・荷捌き場の範囲を表示しています。


近くにあった地図







◆千住川



『千住川』
長谷川 雪且(はせがわ せったん) 画
(江戸名所図会より 江戸後期の画家 1778~1843)

荒川の下流で、隅田川や浅草川よりも上流あたりを千住川と呼んでおります。 当時、千住は川越と江戸を結んだ舟運の発着中継地で、この辺りは高瀬舟の往来で賑わっておりました。
当金庫では創立90周年を記念し、 本店新築の際、 当時の千住の地の賑わいの様子を描いた『千住川』の絵をパンチングアートとし歴史の伝承をしております。







芭蕉



 私、松尾苫蕉は、三百三十年前、元禄一年三月二十七日旧暦)、ここ千住を矢立て初めの地として「おくのほそ道」の旅に出ました。道中三日目、鹿沼に着き、笠を新調して古い笠は光大太寺に置いて翌朝日光に向かいました。その笠を供養していただいたお寺の「笠塚」には、私の弟子ちも訪れてくれたようです。鹿沼では、今も毎年五月に「芭の笠替え行事」が行われています。また、私は、鹿沼で「入りあいのかねもきこえすはるのくれ」と詠みましたが、その句碑を屋台のまち中央公園内に建てていただきました。
 私は、蕎麦やこんにゃくが好きでした。どちらも鹿沼の特産ですが、あの時食べたかどうかは忘れてしまいました。今は、「芭蕉の蕎麦餅」というお菓子や「芭蕉の蓋麦ご膳」というメニューもあるそうです。
 そして、鹿沼は「木のまち」。この像の素材は鹿沼産の杉、チェンソーアーティスト小林哲二さんにチェンソーだけで彫りだしてもらいました。鹿沼市内にはこのような私の木像が五が所に設置されています。
 足立区と鹿沼市は友好都市(平成四年提携)です。両区市民のスポーツや文化の交流、企業や団体の交流も盛んになりました。私は三日かかりましたが、今は東武鉄道の特急で三駅目、東北目動車道でも短時間です。自然、グルメ、祭りやイベントなど魅労いっぱいの鹿沼に旅し、芭蕉像にも会いに行ってください。
 私は、三百三十年ぶりに旅立ちの地に立って両区市の繁栄と道行く人々の旅の安全を祈っています。







◆千住高札場跡








◆一里塚跡











続く。