2021/04/22 千住散歩 10 かもん宿商店街/千住仲町商店街/千住仲町プチテラス/内田病院/千住の鴎外碑/北千住駅

途中道を間違えて南下(w
少し北上して東へ進み、北千住駅でゴール。




◆かもん宿商店街

商店街♪













千住仲町商店街

商店街♪
中は通らなかった。










千住仲町プチテラス



 千住町が日光道中初の宿場と定められたのは寛永二年(1625)将軍德川家光のときです。 水戸佐倉道へ分岐する初宿であり、 日光・東照宮への将軍参詣や諸大名の参勤交代を中継する重要な宿場でもあります。 現在の千住一丁目から五丁目までが最初の千住宿の地にあたります。その後、千住大橋を越えた小塚原、中村町(現・荒川区)辺りまで編入され、 4km余りの街並みが続く千住宿となりました。
 掃部宿(現千住仲町河原町・橋戸町)は初宿指定の後、 万治元年(1658) 千住の堤外川原にある日光道中沿いに家並みができ、千住宿に加宿されました。
 名前の由来は慶長三年(1598)村を拓き、元和二年(1616)掃部堤を築造した石出掃部介吉胤(いしでかもんのすけよしたね)にちなみます。
 掃部宿は千住宿の中でも有力商人が集まり繁栄した町です。豊かさを基に江戸時代から続いた俳譜文化、江戸絵画、漢学・医学など良質な文化遺産を産み出したことでも知られています。明治時代になると千住中組となり、昭和六年 (1931)に千住仲町となりました。江戸時代から明治・大正・昭和と、千住仲町の商店街は千住仲町實業会と称し、 足立区随一の繁華街でした。
 昭和二十年四月十三日の夜間空襲の際、 千住仲町日光道中沿いの商家は焼夷弾で被災L、一夜にして一軒も残らず焼失してしまいました。その後、戦後の復興を遂げ、現在に至ります。










◆内田病院










◆千住の鴎外碑

森鴎外旧居・橘井堂森医院跡」でこの日の1個目の日記に出てきたところ。
2021/04/22 千住散歩 01 北千住駅/森鴎外旧居・橘井堂森医院跡/千住本町商店街/勝専寺/東伏見稲荷神社/宿場町通り商店街/きたろーど1010 - ovanの社会科見学



翁は病人を見ている間は、全幅の精神を以って病人を見ている。(中略)
花房はそれを見て、父の平生を考えて見ると、自分が遠い向うに或物を望んで、目前の事を好い加減に済ませて行くのに反して、父はつまらない日常の事にも全幅の精神を傾注しているということに気が附いた。宿場の医者たるに安んじている父の レジニアションの態度が、有道者の面目に近いということが、朧気(おぼろげ)ながら見えて来た。そしてその時から遽(にわか)に父を尊敬する念を生じた。



森鴎外旧居・橘井堂森医院跡
 森鴎外(本名、森林太郎)は近代の文豪として知られています。
 明治十二(1879)年に父の静雄が南足立郡医となり千住に転居して、後に橘井堂医院(きっせいどういいん)を開業しました。この頃、鴎外は東大在学中で下宿先にいましたが、大学を卒業した明治十四(1881)年には下宿を引き払って千住に住み、医師として父とともに医療活動に従事しました。この頃の様子は小説「カズイスチカ」(臨床記録の意味)に描写されています。
 「鴎外」という号は、現隅田川の白髭橋付近にあった「鴎の渡しの外」という意味で、倫太郎が住んでいた千住を意味しています。











北千住駅

ゴールの北千住駅


オブジェ



乾杯 宮田亮
こちらに詳しく載っていた。
パブリックアート|北千住駅 「乾杯」(宮田亮平)|日本交通文化協会

『宮田 亮平(みやた りょうへい、1945年6月8日 - )は、日本の金属工芸家、第22代文化庁長官、第9代東京芸術大学学長。東京芸術大学名誉教授。』
宮田亮平 - Wikipedia

公式HP
宮田 亮平 website








空気が乾いていたからか、めっちゃ喉乾いた。
そして暑い(w
26℃くらいあったのかな?
勾配は全くなく歩きやすかった。
そういえば歩道橋もなかったなあ。
史跡が固まっていて散歩するには面白い場所だね。