2021/05/05 千住仲町散歩 07 白幡八幡神社/足立神力教会/河原町歩道橋/千葉灸治院跡地/河原町稲荷神社/千住の町並み/千住宿歴史プチテラス

日光街道を少し南下し墨堤通り入る。
通りを一度西へ向かった後、東へ進み、旧日光街道へ入る。



◆白幡八幡神社


毘沙門天



八幡神社
 白播八幡宮が正式名称とGの事です。諸説ありますが、源義家が奥州征伐に赴く際に武運長久を願って渡し場に白旗を立てたことが始まりと言われています。
 第十五代応神天皇として即位さにた誉田訳命(はんだわけのみこと)、別名『八幡の皇子』様が祭られています。
 ここ千住宫元町の八幡神社は、明治四十一年(1908)この地に建立されましたが、昭和二十年(1945)戦災により焼失、昭和三十四年(195S)再建されました。
 以来、干住宫元町の錬守様として武運長久、勝運、厄災除けの神楼として、見守っていただいています。

毘沙門天
中国においては四天王のうち、武神・守護神とされており、北の守りをつかさどります。日本では四天王像として造像安置する場合は「多聞天」、独尊像として造像安置する場合は「毘沙門天」と呼びます。
 日本でも武神・守護神で有り、室町時代後半では京都の商人が毘沙門天像を買い求めたことにより.商売繁盛したことから金選や勝負事の神様、 はては無病息災の神様の一面まで加わりました。 七福神の一尊とされたのもこの頃からです。


楽殿









◆足立神力教会

手前の道路は「墨堤通り」
お地蔵様の後ろに建っているのが教会だと思われる。
神道系の教会かな?
ご存じの方がいらっしゃったら教えてください。
ぺこ <(_ _)>


福徳子育地蔵尊


水子地蔵尊


伏見稲荷大明神









河原町歩道橋

下は墨堤通り










◆千葉灸治院跡地

千葉道場での龍馬と千葉佐那
1853年千葉道場に入門した坂本龍馬は司馬定吉の次女佐那と恋仲になり、両家は婚約を結ぶも、龍馬は江戸に出立し京都で横死する。(1867年)
佐那は龍馬の形見の袖を、生涯離さずこの千住の地に灸治院を開業し、私が龍馬の妻ですと語っていたという。




千葉佐那(さな子)と千住中組の千葉灸治院
坂本龍馬の婚約者、千葉佐那が千住中組(現千住件町)に明治維新後の明治19(1886)年から暮らす。学習院女子部の合監となり、この地で千葉灸治院を開業、生業とした。

千葉佐那
[天保9(1838)年生・明治29(1896)年10月15日59才病没]
北版一刀流剣術開祖千葉周作の弟・千葉定吉の二女。
小太刀に優れ、10代の頃に早くも北辰一刀流小太刀免許皆伝。能馬より3才年下である。
16歳の頃、北辰一刀流桶町千葉道場に:学びに来でいた龍馬と知り合う。文久3(1863)年、能馬は千葉佐那の事を姉の乙女に紹介している。そのころ二人は婚約したらしいが、結婚には至らず、能馬の死を知った後も龍馬の事を思い続け、一生独身で過ごしたと伝えられている。



坂本龍馬青雲の志をもって江戸千葉道場で修業 千葉道場の娘"千葉さな"と運命の出会い 二人の恋愛も維新の荒波に流される 
龍馬の死後悲しい運命とともに縁あって千住で生き千住仲町で生涯を終えた"さな" 
生前龍馬の形見の羽織を抱いて"私が坂本龍馬の妻です"と叫び続けた声を聞いた人幾多あり あわれ千住仲町にて没す 
"千葉さな"の子孫は今も千住仲町3-7にて存在『千住の灸 千葉灸治院』の看板今もあり 
作家『阿井景子氏』(足立区中央町在中によれば"千葉さな"の遺骨は入桂霊園に埋葬されているという 
明治 大正 昭和を過ぎ平成の世に今二人を天空に結ばせてやりたい

著者紹介
阿井景子(あいけいこ)
昭和7(1932)年、長崎市に生れる。佐賀大学教育学部卒業。出版社動務を経て執筆活動に入る。著書に「龍馬の妻」「西郷家の女たち」 「火培の城」「築山殿無残」「花千日の紅なく」「会津鶴ヶ城」など。
北辰一刀流千莱定吉道場の女 佐那には、心に決めた男性がが た。土佐から入門した坂本龍 だが彼は勤王思想にめざめて 去り、おりょう と結婚してし そしてその不慮の死。 だが なっても、佐那は言い続けた 「私は坂本龍馬の婚約者でし 薄幸な女性の生涯を掘り起こ 長篇歷史小說。
解說,中村

ミスプリントですべての文字が印刷されていない。
reader storeで本を探したが「龍馬のもう一人の妻」がなかった(涙









河原町稲荷神社


天水槽

水槽は鋳鉄製で高さ85cm直径98cm上部の円周281cm下部の円周262.5cmでやや下へつぼまり上部に幅6cm厚さ6cmの縁取りがある。
千住の青物問屋街は戦前「千住のヤッチャバ」と呼ばれ東京の北門市場としてその名を馳せていた。
嘉永三年(1859年)の水槽は千住で熱心に行われていた成田講千住総講中傘下の一派御乎長講による寄進である。
水槽には青物問屋等の講員名が記名されている。
右水槽二十九名左水槽二十一名(重複除く)総計五十名。鋳造工らしき者二名、書は徹斎である。
御乎長講の遺物として大幟が現存している。いつの日か掲揚する。

御乎長講をWEBで調べてみたが、出てこなかった。
どんな「講」なんだろう?


楽殿


神輿庫



神道厨子
文化財登録名称「木造黒漆小型厨子二基」
二基同じようだが彫物がそれぞれ違う。小さなお宮だけにその精巧さが何とも魅力的である。昭和四十年代に旧神輿倉の中に埃にまみれて発見された。
祭礼の神輿が町内巡行の際行列に加わった道具の一つである。内部に御神酒を容れる二本の瓶子を納め二基を天秤棒の両端にさしこんで肩にかついで御旅所で信者に内容物を分けたのである。江戸後期の造形性がよく現れていて特に製作年代が明記してある点が資料としても重要である。中央に金銅扁額があり陰刻銘で表に「千住川原町」裏に「天保五甲午歳 細工人錺師宮清」とある



金銅装神輿(千貫神輿)
 足立区登録文化財
 金銅の金具で一面に装飾された木造漆塗の大型神輿である。屋蓋は照り起り露盤上に鳳凰が据えられ、降棟の先端は円形の蕨手となり頂に飛燕がついている。胴部の前と左右面の中央には浮彫りになった登龍立浪の打出金物が飾られている。基部上は玉垣を巡らし四隅に高欄、中央に鳥居がついている。基部の後方右側に「明治未四年五月吉祥日」と制作年代を示す陰刻銘がある。明治初期の作品だが江戸神輿の形式を受けつぎ細工や装飾も見事で美しい総高二三八・五センチ胴部高一二三・○センチと大きく通称千貫神輿と呼ばれているが実際の重量は四百五十貫でありこの大袈裟な通称はむしろその豪壮な装飾から生じたのであろう。
 九月十四・十五日は千住の祭りである。稲荷神社は千住の中心河原町の市場の鎮守なので、神輿は宮を出て市場内に入り町内を渡御するのが大祭の慣わしとなっている。河原稲荷の祭礼では昔はやっちゃ場の各問屋に力自慢の若衆が大勢いたので二天で担いだ神輿である。



金銅装神輿(通称やっちゃ場の千貫神輿)と黒漆小形厨子が保管されております。足立区文化財の為保安上シャッターを下ろしてあります。ご観覧ご希望の方は社務所へ申し出ください。


福禄寿


狛犬



狛犬は高麗犬とも書くコマというのは異国を意味しているので高麗の字を宛てたようである。
狛犬は石などで造り御殿や神社の前に据え置くもの、鬼魅を避けるためといふ。起源については種々の説があって一定しない。一般に狛犬を唐獅子と言ったりするように、本来は獅子ではないかと思われる節がある。
当神社の狛犬は足立区内最大の狛犬で自然石を組み上げた上に鎮座させている阿吽の一対。口を開けている方が阿で雄という口を閉じているのが雌。何でも大きなものが好きな「やっちゃ場」の旦那衆が造りあげたものである。
残念ながら石工は疎か献納者の名も刻んでいない。良く似た兄弟狛犬がある。
浅草寺隣り三社祭で知られる浅草神社狛犬
台座の石組みもそっくり同じ手法でダイナミックなノミ捌きも同じ石工の作としか思えない。
皆様も是非浅草神社でご覧下さい。


句碑



誓いての 後のたのみや 夏木立

揮毫は元掃部宿対嶋薬局のご隠居さんで、雅号は冨雪。
やっちゃ場の問屋四十三軒の人々が檜樹を奉納した記念に建立した。どうして奉納したかは定かでなく、俳句の作者も不明である。
どなたかご存知の方は当神社へお知らせ下さい。


鳥居1


鳥居2








◆まちの歴史 千住の町並み

問屋配置図から見えてくる事柄と人間関係

一、問屋のセリ場
道路から家が下がって建ち、前に空間があるのは問屋の石畳でセリ場。道路際まで家が出ているのは問屋以外の商家。町の中心部に問屋が集まっている。

二、屋号は出身地?
屋号を見て何か気づくだろうか?地方の地名が多い。出身地が分る。江戸時代の国・地域・土地名である。大阪屋、和泉屋、遠州屋、平塚屋、川崎屋と東海道に沿った地名や、関東一円の地名も多い。

三、同じ屋号が多い
よく見ると同じ屋号がかなり見受けられる。柏屋・川崎屋・佐野屋・清水屋・坂川屋等である。兄弟、親戚、暖簾分け等である。屋号で区分できない部分は屋号の上にある印で区分している。〇・□・へ・¬ そして色区分もある。

四、専門問屋
ネギ・三軒 
果物・二軒
蓮根・一軒
セリの時間をずらす。
一人の仲買人が三件のセリに参加するため早番・中番・遅番

五、セリの時間が早いのはなぜ?
夏→三時から、冬→五時から、それは千住のやっちゃ場のみに存在する出仲買商(通称[投師])という商人形態である。やっちゃ場で商売するのではなくいち早く買出しをして市内の各市場、神田、京橋、駒込、品川、中野、江東等の市場に荷を運びそこで商売をする。その為に千住のセリ時間は早いのである。

六、車茶屋
車茶屋という商売がある。大八車の預かりと茶屋を兼ねたものである。はじめは大八車を預かるだけが、お茶のサービスから始まり、お新香が出て煎餅となり、おにぎり、おだんごとなれば商売である。この様に駐車場と茶店を併用したものが車茶屋である。ただ、預かるだけでは繁盛しない。やっちゃ場で大八車を預けるのは荷主(山方)と買出人である。山方は前日の夕暮れから夜半に来て早朝に帰る。買出人は早暁に来て朝に帰る。両者の毎日の時間を的確に把握し、帰るときに遅滞なく車を返せるのが車茶屋の腕の見せどころ。やっちゃ場の街道筋には五、六軒が見受けられる。

七、やっちゃ場を存続させる人間のかかわり
やっちゃ場では人間の繋がりを表す言葉がある。「親戚」「親戚付合い」「引っ掛りがある」などである。やっちゃ場内の人間の繋がりを大切にする気質が感じられる。どうしてだろうか?
やっちゃ場では娘が多かったから婿取りで家業を引き継ぐことが大事であり三代続けて婿取り問屋もある。仲間の問屋の二・三番番頭の腕の良い者を婿に取り家業を続けてゆく。だからやっちゃ場はしっかりしたおかみさんが内側から仕切っていた。セリ場での売上帳を左腕に乗せ、右手は矢立を操り、するすると書きとめていく。そして帳場の帳合はおかみさんの城・問屋の屋台骨をしっかり支えていた。やっちゃ場はある意味、おかみさんでもっていた。

やっちゃ場のしくみ
 ある資料によると慶応年間には江戸市中の青物、水菓子問屋を町域に応じて八組に区分けしたとある。三大市場と言われたうち、最大の神田市場は多町、連雀町に問屋が集中し、その他六町が入り約百三十軒と平面的である。駒込市場は高林寺門前に八軒。その他十二町で約二十七軒と分散している。千住市場は主要日光道中の両側千住河原町の一町に二十九軒と集中している。青果物の専門店街である。日本の専門店街の草分け的な市場といっても過言ではないだろう。



 「大千住」という言葉があります。千住に住んだ明治の支豪、森鳴外が使った言葉です。日光道中千住宿は品川・新宿・板橘と並んで江戸四宿といいました。江戸時代の末の人口は約1万人て、幕2位の品川宿の6千300人を大きく引き離し最大でした(1844年「宿村大概帳」)。まさに「大千住」です。
 なぜ千住宿は最大だったのでしょう。答えは今の町並みにあります。町を歩くと宿場風の家とともに古色蒼然たる蔵がたたずんでいます。千住河原町は市場”ヤッチャバ”の故地です。このように見ると千住の町並みの中に宿場と市場が混在している事にお気付きてしょう。千住が最大規模を持った理由はここにあります。宿という交通機能に加え、市場という物資集技地であったことが千住の繁栄を築きました。物資を保管した蔵は、千住の市場機能を今日に伝えています。
 ては市場が繁栄した要因は何かといえば、足立・葛飾から埼玉の農村が交通圏だったことです。千住宿の古絵図をひも解くと、含人屋・花又屋という区内の地名や、二今半屋、といった三郷の古名を名乗る店が見えますが、これは流通圏を反映しています(江戸後期「千往宿宿並図」)。千住は農村に支えられ四宿の頂点に君臨したのです。
 千住単なる宿場てはない。いまの千住の町並みは、そうした栄光を私たちに語りかけてきます。








千住宿歴史プチテラス


やっちゃ場と千住の彫刻家 富岡芳堂

 明治二十三年 千住二丁目富阔呉服店の次男と人て生まれる。幼少より芸術を好み彫刻家吉田芳明氏に師事する。大正四年米国サンフランシコにて開催さた万国博覧会に国產代表作品として出展し二等銀牌を受けた。特に旧千住大橋の本橋村(高野槙)による作品は現在千住の家々に千住の心として大切に保存されている。昭和三十二年没。

 やっちゃ場の家々に旧千住大橋の本橋村で作った作品が十一体確認されている。なぜやっちゃ場にはこの様に多いのか。元投師(出仲買人)「油清」の井出忠太郎さんは芳堂と大変親しかった。油清の主要仕入問屋は「谷清」谷塚屋である。谷清を仲介して問屋や仲買人への働き掛けがあったものと思われる。新築祝、誕生祝、快気祝といった時に作った。大橋の長寿にあやかったのではないか。面白いもので作品の残っているのはやっちゃ場の東西の位置の家である。旧陸羽街通に沿った南北の家並には見当らない。おそらく昭和二十年四月の空襲で焼失したのであろう。比の他に千住には掃部宿、1~5丁目、大川町に十一体散在している。遠く横浜にも一体あり、冨岡家のご子孫の家には高さ1.2m中1.3mの巨大な学問の神様菅原道真候の像が保存されている。何時の日か千住のしかるべき場所に祭り千往の子供達の学業向上に役立てばと考えている。実現すれば芳堂光生も喜ばれる事と思う。



やっちゃ場最大の特徴 投師の存在
通称「投師」正式には出仲買商という。千住のやっちゃ場だけにあった商人形態である。店を持たず仲買人の店先を信り、セリに参加していち早く大八車に品物を積み束京市内の全市場え駆けつけ売り捌くのである。セリはその為に夏は早朝三時から始っていた。何が利幅があるかは情報が勝負である。昭和初期の投師は百五拾人位いである。市内の市場は投師の持込む青果物でかなりの訳分が賄われていたと思われる。それだけ千任のやっちゃ場が巨大な市場であったと言う事であろう。

投師 異聞
投師の総数は約百五十人位い、各人行き付の市場があり、神田市場え、京橋市場にその他市内各市場に投師が広がって行ったのである。やっちゃ場を出てすぐに
千位大橋の急を上り下りしなければならない。梶棒取りと押手のみでは荷が重くて上り下り出来ない。そこで登場するのが通称「オッペシ屋」と呼ばれる人達てある。上り下りで何銭と決めて投師の専属で請け負うのである。人が集まればそこには全体を差配する元締の登場となる。職業が次の職業を生んだのである。投師一人で大八車一台とは限らない。二台、三台と経済の拡大と共に増加する。毎日やっちゃ場から四、五百台の大八車がまだ明けやらね大橋を渡って行くのである。手ブラ提灯の光りが大橋の坂を下り右は金杉から根岸え、左はこつ通りから日本堤、浅草方面えと提灯の帯が続き大橋より俯瞰するとガラガラと言う大八車の音と共に光りの帯が天の川の流れのようだったと言う。この庬大(ぼうだい)な野菜が毎日束京の人々の胃袋え吸込まれていったのてある。昭和二十年四月の空襲でやっちゃ場は焼野ヶ原となり問屋三十数軒が日光道中の街通の両側に集合して出来た青物市場は三百七十年の歴史を閉じたたのである。但しどっこい投師は生きている。その子孫が現在も築地、北足立、淀橋等の市場で仲買商として脈々と続いている。









続く。