2021/05/20 鐘ヶ淵散歩 06 正福寺/ラーメン珉珉/隅田川神社参道碑/榎本武揚像/梅若公園/大額株式会社/隅田川神社神社鳥居

南北に細長い東白髭公園真ん中あたり周辺を散歩。



◆正福寺


和みの像



(附属正福幼稚園創立三十周年記念碑)
3060名の卒園生と、墨田の子供たちの健やかな成長を願い、平和な二十一世紀建設への祈りを込めて、関係者のご尽力により建立されたものである。



子らによせて
そっと手をあわせてごらん
右の手は佛様の心
左手は君の心
なかよしのしるしなんだよ

あたたかい心が
みなにつたわるように
いつもにこにこがおで
いてほしいな
いつも 言ってほしいな
ありがとうって

がんばろうよ
やりぬこうよ
精一杯生きよう

花 星 おひさま ゆき
いつだって
みんなといっしょなんだよ


大師堂



昭和二十八年六月、篤信の中馬兄弟会、平野材木店により寄進されたものであるが、真言宗仲恭の祖、興教(こうきょう)大師(覚鑁(かくはん)上人)八百五十年御遠忌(平成四年十二月十二日)記念事業の一環として、平和伊二年八月、檀信徒一堂により再建、奉納されたものである。


大師堂脇の石造


手荒水盤



 水盤としては墨田区最古の銘を有す。
 庚申供養をあらわす水鉢として貴重である。


阿弥陀如来


正福寺の板碑



 板碑は青石塔婆とも呼ばれる塔婆の一種です。材質は緑泥片岩(りょくでいへんがん)(青石)で、頭部・碑身・脚部に区分されます。頭部は三角形状にそぎ、碑身との境に二条線を刻み、碑身の正面には種字(仏や菩薩を表す梵字)年号・銘等を薬研彫りで刻みます。
 板碑の起源は碑伝や五輪塔とも言われていますが、はっきりしません。中世の武士達が供養のために建てたものが、のちに庶民にも広がっていったものです。正福寺には三基の板碑があります(登録は二基)
 宝治二年(1248)銘の板碑は高さ116cm、幅46cm、厚さ10cmで区内では随一の大きさを持っています。在銘の板碑としては、都内最古です。阿弥陀一尊を種字で刻み「宝治二年戊辰三月三日」の銘があり、量感のある点でも貴重です。
 登録されているもう一基は、碑身のみが現存し、三尊種字が刻まれています。これらの板碑は江戸時代に付近の御前栽畑から発掘され、のち当時に移されたといわれます。なお、区内には約30基の板碑があります。


板碑



 主尊は阿弥陀如来、下部は観世音菩薩と勢至菩薩をほり、三尊の形をとる。
 当山鶴岡家墓地より移設したものである。


山門









◆ラーメン珉珉

気になったので撮ってみた。
美味しそう・・・。









隅田川神社参道碑










榎本武揚



 本像は、榎本武揚没後の大正二年(1913)五月に建立されました。銅製で、像高は約3mあり、南を向き、大礼服姿で荘重な趣を呈しています。彫刻は、衣服の質感や顔の表情が細かく表現され外形描写に優れています。
 榎本武揚(1836~1908)は、戊辰戦争終盤の箱館戦争明治新政府軍と戦った旧幕臣として著名な人物です。
 武揚は箱館戦争の中心人物として投獄されましたが、維新後は明治政府に出仕し、文部大臣、外務大臣等、政府の要職を歴任しました。晩年は向島に構えた別荘で過ごし、馬に乗って歩く姿が見られたようです。
 建立にあたっては、大隈重信大倉喜八郎渋沢栄一、益田孝など政財界を代表する人物等が協力しました。
 原型作者は藤田文蔵と田中親光であり、鋳造者は平塚駒次郎です。
 この銅像は平成十二年十二月七日に墨田区登録文化財に登録されました。



榎本武揚
 榎本武揚天保七年(1836)に幕臣の子として江戸に生まれ育ち、昌平坂学問所 (昌平黌(しょうへいこう))で学び、安政3年(1856)幕府が長崎に設けた海軍伝習所に入りました。その後、オランダに留学し、最新の知識や技術を身につけ、慶応二年(1866)幕府注文の軍艦開陽丸を回送し帰国しました。
 武揚帰国後の日本は「大政奉還」「王政復古」という体制変換を迎え、武揚は戊辰戦争の最後の戦いとなった箱館戦争では、五稜郭を中心に明治政府に抵抗しましたが、明治二年(1869)降伏しました。
 その後、武揚は投獄されましたが傑出した人材として赦免され、明治政府に出仕しました。明治八年(1875)には、海軍中将兼特命全権公使として、樺太(サハリン)・千島交換条約の締結に尽力しました。
 明治十八年(1885)伊藤博文が初代内閣総理大臣に任命されると、旧幕臣でありながら逓信大臣に就任以降、文部、外務、農省務大臣などの要職を歴任しました。また、東京農業大学の前身である私立育英黌農業科を創設したほか、化学、電気、気象などの各学会に関わりを持ち、日本の殖産産業を支える役割を積極的に引き受けました。
 晩年は成島柳北邸(現言問小学校)の西側に屋敷を構え、悠々自適の日々を過ごしました。明治四十一年(1908)十月に73歳でなくなりましたが、墨堤を馬で散歩する姿や、向島百花園で草花を愛でる姿が見られたそうです。

銅像について」
 本像は青銅製で、高さ約400㎝の台座上に像高300㎝の榎本武揚の立像が乗っています。
 建立は大正二年(1913)五月で、当時の木母寺の境内である当該地に建てられました。白鬚東地区防災拠点建設に伴い木母寺は移転しましたが、本像は当該地に残されました。
 本像の原型作者は田中親光、藤田文蔵、鋳造者は平塚駒次郎であることが台座背面に記されています。また、建設者に大隈重信大倉喜八郎渋沢栄一など当時の政財界の代表的人物が名を連ねています。
 原型作者のひとりである藤田文蔵は洋風彫刻界における先覚者として位置づけられ、代表作に陸奥宗光銅像(外務省)や井伊直弼銅像(掃部山公園、太平洋戦争で供出)、狩野芳崖胸像(東京国立博物館)などが知られています。



みっけ♪


近くにあった地図









◆梅若公園


梅若塚

 梅若塚は、謡曲隅田川」で知られる「梅若伝説」に登場する伝説上の人物である梅若丸の墓であると伝えられます。
 梅若丸は、京都北白川の「吉田少将これふさ」と美濃野上の長者の一人娘「花御せん」の子で、父の死後、7歳で比叡山に入り修行に励みます。梅若丸の秀でた才能は評判になりますが、松若丸という同じく優秀な同輩との争いが原因で、みちのくの人商人(人買い)、信夫の藤太にかどわかされてしまいます。
 奥州に連れて行かれる途中、なれない長旅の疲労により重い病にかかり、藤太は梅若丸を隅田川のほとりに置き去りにしてしまいます。里人たちの看病もむなしく、「たづね来て(尋ね来て) とはゝこたへよ(問わば答えよ) みやこ鳥(都鳥) すみたかはらの(隅田川原の) 露と消えぬと(露と消えぬと)」という辞世の句を残し、貞元元年三月十五日、梅若丸はわずか12歳でその生涯を閉じます。その死を哀れんだ出羽国羽黒山の高僧で下総の御坊忠円阿闍梨が墓を築き、一本の柳を植えて菩提を弔ったのが梅若塚であると伝えられ、梅若丸は山王権現として信仰の対象となっています。 

「梅若塚と木母寺」
 ;木母寺(もくぼじ)は梅若塚の傍らに建てられた草庵が梅若寺と呼ばれるようになったのが始まりとされます。その後「梅」の字を分けて「木母」となったと言われます。
 木母寺は当該地周辺にありましたが、白髪東地区防災拠点建設に伴い、現存する梅若堂、梅若塚と共に現在の場所に移転しています。

「梅若塚と妙亀探塚」
妙亀(みょうき)塚(都指定旧跡)は、梅若丸の母親の墓であると言われます。我が子を探し求めこの地まで来た母親が里人から梅若丸の死を知らされ、梅若丸の菩堤を弔うために庵を結びました。その後、母は底なし池に身を投げてしまいます。母が身を投げた池は隅田川の対岸、浅茅か原(現在の台東区橋場付近)にあった池と言われ、妙亀塚は妙亀塚公園(台東区橋場) 内にあります。

「梅若権現御縁起」
 「梅若伝説」を伝える絵巻物として、「紙本着色梅若権現御縁起 附 漆箱二匣(こう)」(墨田区指定有形文化財)があります。これは高崎城主安藤対馬守重治が、延宝7年(1679)3月に寄進したもので、現在も木母寺が所蔵する寺社縁起巻物です。
 原本は保存のため非公開ですが、すみだ郷土文化資料館で複製を所蔵しており、展示されています。

隅田川物」
謡曲隅田川」は世阿弥の子、観世元雅(かんぜもとまさ)によって作曲されました。「隅田川物」とは、この梅若伝説を扱った謡曲隅田川」を原点とした江戸文芸のジャンルの
一つで、歌舞伎や浄瑠璃などで様々な作品が生まれました。



 梅若塚の梅若丸は伝説上の人物で、謡曲隅田川」で知られます。梅若丸は京都北白川の吉田少将帷房の遺児で、比叡山で修行中に信夫藤太と言う人買いによりさらわれ、奥州に向かう途中隅田川のほとりで死にます。その死を哀れんだ天台宗の高僧忠円が築いた墓が梅若塚であると伝えられます。
 木母寺は忠円により梅若塚の傍らに建てられた隅田院梅若寺が始まりとされます。塚は梅若山王権現として信仰を集めました。木母寺は当該地周辺にありましたが、白髭防災団地建設に伴い現在地に移転しています。


明治期の木母寺境内

 江戸時代の木母寺は幕府から寺領を与えられ、多くの参拝者を集めていましたが、明治時代になり神仏分離令に伴う廃仏毀釈のあおりをうけ木母寺は荒廃し梅若神社となりました。幕府の庇護を失った梅若神社の経営は苦しく、存続の危機に陥りますが、様々な人の支援を受け、明治二十二年(1889)に寺院への復帰を果たしました。
 現在の木母寺に移築され現存する梅若堂は、木母寺が再興されたのちに建立されたもので、戦時中の空襲から奇跡的に焼失を免れたものです。
 「木母寺境内之図」は、梅若堂が当地に建立された明治期の木母寺の様子を伝える貴重な資料です。
 画面の中央に梅若堂、右手に木母寺の本堂、左手に料理茶屋がそれぞれ描かれており、梅若堂を中心とした木母寺境内の様子が描かれた一枚です。









◆大額株式会社

気になったので撮ってみた。
額縁専門の会社だね。
こちらにはショールームもあるとのこと。
ショールーム|大額株式会社









隅田川神社鳥居

神社はこのずっと奥、東白髭公園より先にあった。









続く。