2021/05/20 鐘ヶ淵散歩 09 石浜神社

情報量が多いので1ページで。



前に一度来たのだが、写真を撮り忘れたので再訪。
2021/05/09 台東区橋場散歩 02 瑞光橋/真崎先銭座跡/石浜神社/石浜城址公園/白髭橋/明治天皇行幸對鴎荘遺蹟 - ovanの社会科見学







◆石浜城址(石浜神社)

 石浜城は、室町時代の中ごろ、武蔵千葉氏の居城となり、戦乱の世に百年あまり続いた城である。天正年間(1573~1591)、城主千葉胤村(北条氏繁三男)を最後に、後北条氏滅亡後、廃城となったと思われる。石浜城の位置には諸説あるが、石浜神社付近は有力な推定地の一つとされる。
 石浜神社は、聖武天皇の時代·神亀元年(724)の創建と伝える古社で、源頼朝・千葉氏・字都宮氏らの崇敬を受けたという。江戸時代の夏越の萩(六月三十日)は、その壮麗さにおいて名高く、天保九年(1838)刊行の『東都歳事記』の挿絵に夏の風物詩として紹介されている。






◆真先稲荷と田楽茶屋

 真先(崎)稲荷は、天文年間(1532~1554)、石浜城主千葉守胤によって祀られたと伝える。もと隅田川沿岸にあり、その門前は景勝地として知られていた。また、奥宮の狐穴から出現する「お出狐」は、大願の三囲稲荷の狐と並んで有名であったという。
 江戸中期から参詣する人が多くなり、宝暦七年(1757)ころには、吉原豆腐で作った田楽を売る甲子屋・川口屋などの茶屋がたち並んで、おおいに繁昌した。吉原の遊客もよく当地を訪れ、「田楽で帰るがほんの信者なり」など、当時の川柳に真先稲荷・田楽・吉原を取り合わせた句が詠まれている。






◆真先神社






江戸神社/北野天満宮/妙義・八幡神社/寿老人






◆招来稲荷神社






◆白狐神






富士塚



 石浜神社は、古来、富士眺望の名所として名高い。江戸時代に富士塚 が築かれたが、近代の開発による境内移転で移動し、その姿を変えた。現存の富士塚は、昭和六十三年(1988)の墨田川スーパー堤防建設の際に新造されたもの。富士塚及び周辺には、浅草・橋場付近の瓦職人の富士講 が奉納したと推定される宝暦八年(1758)銘の標柱、安永四年(1775)銘の手水鉢、年未詳の奉納石が置かれている。標柱は、宝暦八年に遥拝所として富士塚が築造された可能性を伝え、江戸で初めて造られた富士塚といわれる安永八年造立の高田富士(新宿区)よりも古い事例であることを示唆する。奉納石は、自然石の富士山形の石を用いたと思われる。江戸の富士信仰を研究する上で学術的に価値が高く、地域の民間信仰の歴史を伝える大変貴重な資料である。






◆神楽獅子






◆神輿庫






◆神楽殿






◆麁香神社関係資料

 麁香神社は石浜神社の摂社で、本殿西の中庭内にある。祭神は手置帆負命彦狭知命。この二神は工匠守護の祖神で、江戸時代には建築関係者の信仰を広く集めた。ここに立つ天保五年(1834)銘の麁香神社建立の碑、安政四年(1857)銘の日本大工祖神の碑は、幕府御用職大工方・屋根方等の工匠が建てたものである。このほか、安永三年(1774)銘の由来を記した板、安政(1854~1860)の銘の扁額がある。


亀田鵬斎の詩碑

 亀田鵬斎(1752~1826)は、隅田川沿岸に多くの詩碑を残した。この碑は、文政七年(1824)に建立されたもので、前面に隅田渡津の歴史を詠んだ鵬斎の七言律詩2首と、稲垣成斎による建碑の由来が刻まれている。鵬斎は詩文・書にもすぐれた儒学者であったが、寛政異学の禁で異端の筆頭とされた。晩年、金杉で暮らし「金杉の酔先生」と呼ばれ親しまれたという。





◆鳥居1



 寛延二年(1749)八月哉生明(陰暦三日)の建立。主石材は花崗岩。建立者は石浜在住と推定される水埜則祐。銘の撰者は儒者の鳴鳳郷(成島錦江)。石工は小出氏。橋場町名主を含む商人等五十七人が寄進した。笠木の小口がカマボコ型で、柱の傾斜が大きいという特徴を持ち、同形式の安永八年(1779)銘の一の鳥居等とともに神明鳥居系の石浜鳥居と呼ばれる。江戸の歴史、文化、信仰を知る上で、また鳥居研究において大変貴重である。






◆鳥居2



 安永8年(1779)に、幕府御用呉服商の茶屋(中島)四郎 次郎延貞が建立。石浜神社中興の神主であった鈴木智庸の代のものです。銘の撰文と書は、国学者歌人の能書家の三島景雄(自寛)。笠木の小口が蒲鉾形をなし、柱の傾きに も特徴があり、この形式の鳥居は、神明系の「石浜鳥居」と呼ばれています。






続く。