2021/06/14 01 雑司が谷散歩 01 江戸川橋駅/古川橋歩道橋/古川橋/稲荷社/黒田小学校・文京区立第五中学校跡地/清光院/大日坂

24時間勤務アケで、東京メトロ江戸川橋駅から同じく東池袋経由で池袋へ向かって歩く。
その後は、東武東上線で大山まで乗車。
さらに都営大江戸線新江古田駅まで散歩。




雑司が谷霊園手前まで。



最初に江戸川橋駅から神田川沿いに西へ進む。
上にチラチラ見える道路は首都高速5号池袋線
以前の日記と少しかぶる。
2018/08/19 護国寺散歩 01 江戸川橋駅/華水橋/大日坂/妙足院/小日向二丁目児童遊園/鷺坂/石川啄木初の上京下宿跡 - ovanの社会科見学
2018/07/07 小日向散歩 03 神田上水旧白堀跡/黒田小学校縁起/旧小日向水道町/福勝寺/横町坂/石切劔箭神社 東京分祠/薬罐坂 - ovanの社会科見学








江戸川橋駅

スタートの東京メトロ江戸川橋駅










◆古川橋歩道橋











◆古川橋

下は神田川












◆稲荷社

低い位置にロープで規制がされていたので外からお参り。









◆黒田小学校・文京区立第五中学校跡地



 われらの母校黒田小学校は明治十一年二月ここ小日向水道町に創建された。その校名は当時水道端二丁目居を卜せられた侯爵黒田長知氏が維新の勲功による政府賜米2千石を東京府に献納しもって学校設立の資に充てんことを請願せられたによるものである。尓来、校運、日に隆盛に赴き、昭和十一年七月には旧木造校舎を改築して鉄筋コンクリート造り3階建てとなし、形式内容共に充実した小学校となり校名ますます隆々たるものがあった。たまたま大東亜戦争の勃発に会い、学童を宮城県松島に疎開せしむることとなったが、昭和二十年五月二十五日帝都空襲の戦火に包まれて、校舎は遂に荒廃に帰したために翌二十一年三月廃校となり、ここに春風秋雨七十年の歴史を閉じたのである。校舎はその後修復せられて現に文京区立第五中学校となっているが今校庭に立って黒田小学校が明治大正昭和にわたり幾多有為の人材の揺籠として国運の興隆に寄与した光輝ある歴史を回顧すれば感慨を禁じ得ない。すなわちわれら卒業生有志相謀りここに碑を建てて永く恩師級友を偲ぶよすがとするものである。 



 黒田小学校は、明治11年(1878)第4中学区26番公立小学「黒田学校」として、ここに創立された。
 当時、水道端2丁目(現水道2丁目)に居住していた黒田長知(旧福岡藩主)が明治維新の功労による政府賜米2000石を東京府に献納して、小日向地区への学校設立を請願した。東京府はその篤志を伝えるため、校名を黒田学校とした。
 当初の校舎は、南北2棟の木造で8教室であった。昭和11年(1936)、建て替えられて鉄筋コンクリート造り3階建てとなった。
 黒田家ゆかりの藤の花を校章とし、質実剛健を校訓とした黒田小学校は、各界に多くの卒業生を送った。卒業生の中には、松平恒雄(外交官、政治家)、永井荷風(小説家)、黒澤明(映画監督)などがいる。
 昭和20年、空襲で校舎は内部が全焼し、翌年3月31日をもって黒田小学校は廃校になった。
 文京区立第五中学校は、昭和22年4月、六三制による区立中学校の一つとして、区立小日向台町小学校内に設置された。一方、旧黒田小学校の校舎は戦災者の集団住宅となっていたが、昭和24年から内部の改修が行われると同時に生徒の移転が始まり、翌年には全生徒が移り独立校舎となった。
 創立時の教育目標は、民主的で文化的な人間の育成を目指すというものであった。その後改訂を経て、心身共にたくましい人、高い知性と豊かな情操をもつ人、骨身を惜しまず働く人、社会に貢献し信頼される人、といった教育目標を設定した。
 平成21年(2009)3月、生徒数の減少により第五中学校は第七中学校と統合し、文京区立音羽中学校となった。ここに文京区立第五中学校は惜しまれつつ廃校となり、黒田小学校以来の歴史をとじた。









◆清光院

中でお掃除をしていらしたので外からお参り。









◆大日坂


2018/08/20撮影

 「……坂のなかばに大日の堂あればかくよべり。」(改撰江戸志)
 この「大日堂、とは寛文年中(1661〜73)に創建された天台宗覚王山妙足院の大日堂のことである。
 坂名はこのことに由来するが、別名「八幡坂」については現在小日向神社に合祀されている田中八幡神社があったことによる。
 この一円は寺町の感のする所である。
   この町に遊びくらして三年居き
     寺の墓やぶ深くなりたり  折口信夫(筆名・釈超空1887-1953)









続く。