細い路地を北へ進む。
こちらも以前来たことがある場所があった。
ovanrei.hatenablog.com
2018/08/21 江戸川橋散歩 08 歩道橋/清戸坂/窪田空穂終焉の地/村川住宅/薬鑵坂/旧雑司ヶ谷町/菊池寛旧宅跡 - ovanの社会科見学
岐阜県本巣郡根尾村に産する岩石で、 割った切面に美しい菊花状の模様が現れる。 近年庭石や飾石として珍重されている。赤褐色、朱、 紫などの岩石の地肌の中に白や紅色の菊紋が点在する。中には菊紋の直径が20cmに及ぶものもある。京都や秩父地方でも産出されるが、根尾の菊花石のように見事なものは他に例がない。
平成21年11月・崇敬者より奉納される
徳川三代将軍家光公が密狩りで当地を訪れた際、ご休息された切り株の傍らにあった祠に大願成就を祈願され、見事に徳川三百年の礎を築け上げたことから正一位腰料掛稲荷大明神と奉称し、江戸時代よりうじがみとしてあつく近隣の崇敬を受けたのが当神社の始まり。腰掛という言葉に大志を胸に秘めて一時、仮に身をおくという意味を持たせるようになったのがちょうど江戸時代のこの頃からと言われ、参勤交代などで志をもって江戸に来た侍や商人、奉公人たちの一時腰掛けの心の支えとして、また近年は、緑結びや合格、就職転職、大願成就祈願など、これから新しい道へ踏み出したい人に開運のご利益のあるお稲荷さまとして崇敬され、今日に至っている。
江戸・東京の農業 平田牧場
明治の元勲・山形有朋 が出資して、明治5〜6年、平田貞次郎に英華舎・平田牛乳搾乳所(現在の千代区三番町)を開設させ、同10年代には雑司ヶ谷村に牧場 を開設しました。
清戸坂の道ぞい北側に平田牧場の立派な牧舎があり、隣には牛乳 の小売店として、旗竿には「官許うしのちち」とかなとローマ字書きの旗がかかっていました。
ここ文京区は、昭和22年に小石川区と本郷区が合併、明治以来文教地区であっとことにその名は由来していますが、農業、特に畜産も当区の歴史として一ページを飾っています。
ペーリー来航で「鎖国令」が解けたことなどから、江戸には欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増え、明治10年の西南の役が終わった頃より、当区にも牛乳搾乳業者が増加しました。
明治中期の資料によると、本郷弓町「牧牛社」、本郷真砂町「真砂社」、本郷森川町「開墾社」、湯崎新花町「厚生舎」、千駄木林町「楽牛園」、千駄木町「友國社」、馬込上富士前町「長養軒」、駒込曙町「曙舎」、小日向茗荷谷町「駒山牧社」、小石川原町「嶺岡牧社」、小石川久堅町「保生舎」など20件近い牧場が集中していました。
◆清土鬼子母神堂
雑司が谷鬼子母神像は清土のこの地から出土され「清土鬼子母神」と呼ばれています。
その鬼子母神を母に持つ吉祥天は仏教では毘沙門天の妃ともいわれ、福徳安楽を与え、仏法を護持する天女でもあり、左手には如意宝珠を捧げ持っています。
◆菊池寛 旧宅跡
菊池寛 は、明治二一年(1888)一二月二六日に香川県高松市に生まれた。戯曲「父帰る」、小説「無名作家の日記」、「忠直卿行状記」などの作品で文壇の地位を確立した。その後、大正一二年(1913)に雑誌「文藝春秋」を創刊、昭和十年(1935)芥川賞・直木賞を創設するなど、後進の育成にも尽力し、文壇の大御所と言われた。
寛は大正一二年以来、当地から程近い雑司ヶ谷金山に居住していたが、昭和一二年に当地に転居、晩年までここで過ごした。昭和ニ三年三月六日没。
「不実心不成事 不虚心不知事」
(実心ならざれば事成さず、虚心ならざれば事知らず)は、寛の座右の銘として知られている。
◆稲荷神社(雑司が谷)
ビックリするくらいわかりづらいところにあった!
◆雑司が谷一丁目公園
google mapには公園内に「浜口雄幸旧宅跡」がある。
現地には説明版など見当たらなかった。
『濱口 雄幸(はまぐち おさち、1870年5月1日〈明治3年4月1日〉- 1931年〈昭和6年〉8月26日)は、日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。号は空谷。
大蔵大臣(第25代)、内務大臣(第43代)、内閣総理大臣(第27代)、立憲民政党総裁などを歴任した。その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれた。 』
濱口雄幸 - Wikipedia
居住した場所などの記載はないため、こちらで合っているのかわからない。
墓所に訪れたことがある。
2020/09/17 南青山散歩 04 青山霊園 01 - ovanの社会科見学
東京駅で襲撃された場所を訪れた時の日記。
2017/10/24 01 東京駅散歩 浜口首相遭難現場/原首相遭難現場 - ovanの社会科見学
◆雑司が谷宣教師館
中を見学できるみたいなので今度誰かと一緒に来よう♪
続く。