ここでも細い路地を北東へ。
尾竹橋通りに一度出て、また北東へ進む。
文政年間の地誌「新編武蔵風土記稿」によると、江戸時代の興野村(奥野村との記録もある)は家数九十戸、その内六十家が紙
漉きを副業とした農村であった。その村の鎮守がこの神社で、もとは氷川神社と称していた。
氷川の神須佐之男命を祀るとともに、諏訪・八幡の二神、即ち建御名方命(たけなかたのみこと)と誉田別命(ほんだわけのみこと)を合祀し、各木造のご神体を、また氷川社の本地仏(ほんちぶつ)として十一面間背音菩薩の銅造を安置していた。
創建は不明だが、古くは八幡社の社地で江戸時代後期から氷川社が本座して祀られたようである。そのころは別当として清光寺という寺が管理していた。
明治維新後、神仏混淆(しんぶつこんこう)が禁じられ、氷川社は、明治六年七月五日、興野村尊者に格付けされて村持ちとなった。氏子九十戸を当時の文書にあり、江戸時代から人家は少しも増えていない。
昭和九年九月二十一日、社号を興野神社と改め今日に至っている。足立区内屈指のイチョウの大樹が二本、社殿の前に茂り区の保存儒に指定され、また、山岡鉄舟自筆の祭礼のぼり二流が足立区有形文化財、九月十五日の例大祭に奉納される興野囃子が無形民俗文化財にそれぞれ登録されている。
石塔
◆イーストロード
商店街♪
続く。