2021/07/21 西新井散歩 09 炎天寺/常楽寺/赤山街道/ニュー銭湯竜の湯/竹ノ塚駅/北千住駅

「炎天寺」からは細い路地を北へ進み、「ニュー銭湯竜の湯」まで北上。
少し戻って竹ノ塚駅でゴール。




◆炎天寺



 天喜年間(1053~1057)源頼義・義家父子が奧州の安倍一族征討のおり、当寺付近で苦戰し石清水(いわしみず)八幡宮に祈顧し勝利を収めたので、八幡社ならびに本寺を建立したという。その绿起は八幡社の応神祠碑(おうじんしひ)(亀田鵬斎(かめだほうさい)。その子撰書)に詳述されている。
 堂內には、本尊阿弥陀如来のほか、薬師如来不動明王像が祀られ、境内には庚申供養塔・阿弥陀如来・馬頭親音・五輪塔・六地藏・わらべ地蔵・おこり神(がみ)など当時の人々の哀歓をたぐる各種石造物が数多くみられる。
 また江戸後期の俳人小林一茶が「蝉鳴くや六月村の炎天寺」「むら雨(さめ)や六月村の炎天寺」など数句を当地でよんだといわれており、池のほとりに一茶関係の記念碑がある。この由縁から、例年十月二十三日、本寺で「一茶まつり」を催し、当日は一茶行列・一茶法要忌・一六法要忌・献茶式・全国小中学生俳句大会などか盛大に行なわれている。近年は全国
数百校から十五万句以上の投句かあるとい。



炎天寺と一茶まつり
  輝なくや六月村の炎天寺
  やせ蛙まけるな一茶是にあり
という炎天寺や竹の塚にちなむ一茶の句が縁で、昭和三十七年、三十八年にそれぞれの句碑が炎天寺境内に建立されて「一茶まつり」が始められた。
 これには、炎天寺の壇徒をはじめ地域の人びとの支援や俳人の協力、熱意があって実行委員会が組織され、毎年十一月二十三日、勤労感謝の日に開催されている。
 一茶に対する文学的評価や個人評伝は多様であるが、農民詩人、生活詩人、童謡詩人としての作品は平易で一般の共感を得ている。特に、童謡詩人としての作品が少年期の情操
教育に適するところから、 学童の俳句運動に発展し、一茶まつりに併行して全国小中学生俳句大会が行われ、国内及び海外から毎年二十万句に及ぶ作品が投句されるまでになった。
 これらの中から入選した数多くの作品は、わが国の文学史上、少年少女の名句として長く後世に伝えられるであろう。



炎天寺の歴史
 当山は平安期の末に創建されたもので、天貴四年(1056)炎天続きの旧暦六月奥州の安倍一族の反乱を鎮圧に従く源頼義八幡太郎義家父子が、今日の石清水の八幡宮に祈念し、ようやく勝利を得ることができた。
 そこで寺の隣に八幡宮を建立、地名を六月村と改め、寺名を源氏の白旗(幡)が勝ったので幡勝山、戦勝祈願が成就したので成就院、機構が炎天続きだったので炎天寺と改められたと伝えられる源治ゆかりの寺で江戸後期の俳句の俳人小林一茶がいくつかの名句を残している。
 やせ蛙まけるな一茶是にあり (文化十三年四月)
 蝉鳴くや六月村の炎天寺   (同年九月)


福蛙/弘法大師 像


子育地蔵


小林一茶

右の碑には
「黄銀杏の一茶まつりの子にあまねし」
と刻まれている。


句碑

蝉声降りしきれ 寺領に 子ともらに
憲吉


年表 炎天寺と一茶

552   仏教伝来
806   空海弘法大師真言宗をひらく
1051   前九年の役はじまる
1056   炎天寺創建される(天貴四年)
1085   後三年の役
1116   中尊寺創建される
1640   炎天寺線彫阿弥陀石仏建立  
1694   芭蕉奥の細道」をあらわす
1694   芭蕉没す51才
1763   宝暦十三年五月五日、一茶、信州柏原村に生まれる
     (今の長野県上水内郡信濃町柏原) 幼名 小林弥太郎
1777   一茶、江戸へ奉公に出る(15才)
1792~8  関西、九州、四国をめぐる江戸にかえる
1798   一茶、総本山長谷寺で正月を迎える
1801   「父の終焉日記」を著す 一茶39才
1806   俳人であった炎天寺住職実円没す59才 辞世の句「ひきたまへ花のむしろを菩薩たち」
1810   「七番日記」起稿、この初めから文化十五年(文政元年)末に至る句日記。48才
1811   「我春集」を著す 49才
1814   きく28才と結婚した。 一茶52才
1816   「やせ蛙負けるな一茶是にあり」 長男、千太郎生まれて一ヶ月で死ぬ(文化13年、一茶54才)
1818   長女、さと生れる。
1818   「おらが春」著す。一茶57才 長女さと死ぬ。
1820   次男、石太郎生れる。一茶58才
1821   次男、石太郎死ぬ。
1823   きく没す 享年37才
1824   雪女(38才)と再婚、間もなく離婚する 一茶62才
1826   やを女(32才)と結婚 一茶64才
1827   柏原大火で類焼し、焼残りの土蔵に移住する。 その年(文政十年)十一月十九日没す 法名釈一茶
1845   炎天寺観音経普門品一万巻読経供養塔建つ
1850   十二代将軍、徳川家慶公、鶴の御鷹狩に炎天寺を御善所とした (嘉永三年)
1868   明治維新
1962   「蝉鳴くや六月村の炎天寺」の石碑が建立されれ「一茶まつり」はじまる(昭和三十七年)
1963   一茶まつり 全国小中学校性俳句大会はじまる。
1971   第十回一茶まつりに橋本憲吉の「蝉声降りしきれ寺領に子供らに」の句碑建つ。
1987   一茶まつり、全国小中学生俳句大会が第十一回正力松太郎賞を受賞した。
1995   石田波郷の「日洩れては急ぐ落葉や炎天寺」の句碑建つ。
1995   石鍋静穂の「施餓鬼会の背に極楽の余り風」の句碑建つ。
2000   吉本忠之の「黄銀杏の一茶まつりの子にあまねし」の句碑建つ。


句碑

やせ蛙 負けるな一茶 是にあり
一茶


句碑前の池

蛙の像がいくつかあった。


句碑

蝉なくや 六月村の炎天寺
一茶


石塔など


庚申塔


六地蔵


石塔

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石塔

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山門








常楽寺




 当寺は真言宗豊山派で観林山極楽院常楽寺と いう。江戸時代初期、河内与兵衛胤盛(こうちよへいたねもり)によって開基されたと伝えられている。
 本尊は聖観音菩薩坐像で、江戸中期の造像と思われる。他に弘法大師坐像、興教(こうきょう)大師坐像、閻魔坐像、六地蔵文久二年(1862)の十三仏画等がある。
 墓地には、地元竹塚村が生んだ江戸後期の文人、竹塚東子(とうし)の墓がある。東子は実名を谷古宇与兵衛(やこうよへい)といい、寛政から文化年間(1789~181)にかけて著作活動をした文人である。
 東子は山東京伝(さんとうきょうでん)の門下の戯作者で、俳諧を越谷の会田吾山(あいたござん)に学び、狂歌、落語、活花等にも秀でた風流人であった。代表作に寛政二年(1790)刊の『田舎談義(いなかだんぎ)』がある。文化十二年(1815)十一月十三日没、法名は喬雲醍醐居士(きょううんだいごこじ)という。墓は昭和五十七年十二月、足立区登録有形文化財(歷史資料)となった。また境内にある庚申塔(天保十一年銘)も、平成十八年三月、足立区登録有形民俗文化財になって いる。


第六天社



大六天神は天上欲界の頂上(第六天)を住処とし矢を射って一切の慾楽を自在に獲得する天魔で釈迦如来成道の最後に降伏された
密教では他化自在天として胎蔵量茶羅に画かれ他者のさとりを大いに歓喜し共に楽しむ善神で大日如来はこの天宮で般若理趣の真理を説く江戸期より当山鎮守として勧請され霜月初卯を
縁日とし大六天析願会が厳修される
参拝祈願すれば私達の悪しき我欲や執者を正し諸願成就に功を巡らし殊に禄が増大し出世・良縁・学業等にご利益があると伝える


六地蔵


山門







◆赤山街道

商店街♪
なんだろうけど、商店街の名前が書いてない・・・・。
この道が「赤山街道」と電柱に表記されているだけだった。



デザインマンホール

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ほかにもあったと思う。



マンホールじゃないけど・・・・。






◆ニュー銭湯竜の湯




普通の銭湯とは違うようだね・・・・。








竹ノ塚駅




駅前ロータリー




久しぶりに歩いた。
めっちゃ暑かった(w
公園で頭を洗いながら歩いた。
コースは平たんな道だったのでラクだったし、公園も割とあったので散歩しやすいと思う。
目標通り梅島まで歩いていたら干からびていただろうなあ(w



北千住から千代田線へ乗り換えて帰る。



北千住駅