2021/08/03 足立大谷田散歩 07 島忠太谷田店/金峰稲荷神社/内谷公園/富士の湯/東和四丁目第2アパート/旧東渕江村役場跡碑/大谷田陸橋

葛西用水親水水路少し西側の道を南下。
内谷公園からは細い路地を東へ進む。





◆島忠太谷田店









◆金峰稲荷神社



金峯稲荷と大谷田稗田の人々
 金峯(きんぽう)稲荷の「金峯」とは明治の合併村・東測江村の村長だった 「金子峯助(みねすけ)」のことです。 当時、大谷田の稗田(ひえだ)は、土地の条件も厳しく人家もほとんどありませんでした。東測江村長になる前の1890(明治23)年、金子峯助は、 私財を投じて稗田の地に道路や橋を新設し、 家も建設し、人々の移住を進めたといいます。 また土地改良を行うなど、稗田の開発に尽くしました。このような金子峯助に対して感謝と親愛の情を込めて建てられたのが金峯稲荷です。
そのときに、金峯稲荷講も結成され、毎年初午の日には酒を酌み交わし峯助を偲んだそうです。

金子峯助と石鹸製造
 明治政府は、日本の産業技術の発選をはかろうと、1877(明治10)年8月21日から11月30日まで、上野公園を会場に第1回内国勧業博覧会を開催しました。鹿児島を除く全国道府県が塗加しました。 現在の足立区からも工業製品、手工業製品、農産物など多くの産物が出品されましたが、金子峯助も化学製品部門に、大谷田村産の石鹸を出品しています。 製造技師は鞠子仁左衛門でした。「出品目録」 の特色欄に 「薦入朱色透明」とあるので、 香料入りの赤い透明な化粧石鹸であったことがねかります。 1876(明治9)年の生産額は2350円にも上り、当時としては先進的な産業であった石鹸製造に熱心に取り組んでいた様子がうかがえます。


石碑など



参道入口









◆内谷公園









◆富士の湯

銭湯♪











◆東和四丁目第2アパート










◆旧東渕江村役場跡碑

東渕江村(ひがしふちえむら)とは、1889年(明治22年)5月1日から1932年(昭和7年)10月1日まで存在した東京府南足立郡の村。現在の大谷田、佐野、中川、東和、東綾瀬に相当する。 』

『「ふち」の表記法は公文書や公機関発行の地図、歴史文献などによって「渕」および「淵」の二種類が混在している。「ひがしふちえ」の名を冠した施設(足立区立東渕江小学校・東渕江橋・東渕江庭園)などは「渕」の表記を用いているが、しかしそれらも文献資料によっては「淵」と記されている。この表記法についてはどちらが正しいかは厳密に定義されておらず、「にっぽん」か「にほん」かと同じく、慣用的にどちらも認められているものである。ただし、上記の施設の名称を示す場合は、「渕」の表記を用いるのが妥当である。これは渕江村も同様である。 』

東渕江村 - Wikipedia


渕、淵 かぁ・・・・。









◆大谷田陸橋

上は環七。
こちらをくぐって反対側へ。











続く。