2021/08/04 亀有散歩 02 亀有香取神社/光明寺/こち亀ゲームパーク/隅田あいあい児童遊園/板碑型阿弥陀三尊種子庚申塔/常磐線高架/形山松五碑

亀有駅南側エリアから東側エリアへ。




◆亀有香取神社



御由緒
鎌倉時代建治二年八月十九日(1276)、時亀有の地は下統国葛西御朋毛無郷と呼ばれ、香取神官の神須地でありました。
そのことから本宮の御分霊(経津主大神)をお迎えし押の鎮守様としてお把りし、多くの人々がこの地に移り住み始めました。
その後、鹿島(武甕槌大神)・息柄(岐大神)の両大神を合わせおまつりし、東国三社明神のお社として村人・近隣の人々を守りけ、約七百三十年の時を経て現在に至ります。
また亀有の地は、古くは「亀無」「亀梨」と呼ばれていました。元々この辺りの土地は沼地が多く、亀の背のような島状の土地でありました。そのことから「亀のような形をなす土地」として地理的状況から「かめなし」という土地名が生まれたと考えられています。当時葛西御厨(神頭の一種)の範囲と所領高を明記した応永五年(1398)の「下総国葛西御厨注文」や、北条氏や家臣に諸役を賦課するために各人の役高を記した永禄二年(1559)の「小田原衆所領役帳」にはいずれも「亀無」「亀梨」の記載がみられます。
「亀無」から「亀有」となった由来は諸説様々で定かてはありませんが、「なし」の意味を嫌ったものだと思われます。
正保元年(1644)江戸府による「正保改定図」から「亀有」としたようてす。

香取神社のかみさまのおはなし
日本最古の伝志でてある「日本書記」によると、はるか普、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が日本の国を治めようとしましたが、荒ぶる神々が争いをやめず非常に乱れていました。天照大御神は八百万神(やおよろずのかみ)に相談し、様々な神様を日本の国へ派遣しますが、統治は上手くいきませんてした。困り果でた天照大御神が八百万神に情重に相談させ、話し合いを重ねた結果、神々は口を揃えて、経津主神(ふつぬしのかみ)こそふさわしいと申し上げました。そこへ武甕槌神(たけみかづちのかみ)が申し出られたので、共に出雲に派遣されることになりました。経津主、武甕槌の二神は出雲国の稲佐の小汀(いなさのおはま)に着いて十握剣(とつかのつるぎ)を抜いて逆さに突き立て、武威を示されると、大国主神(おおくにぬしのかみ)は「大御神の御命令に全く異議はありません」ということで、平国の広矛(くにむけのひろほこ)を受け取り、二神は円満に国譲りを実現いたしました。更に岐大神(いきおおかみ)の道案内、先導により国内を巡行し、荒ぶる神々を平定して日本建国の基礎を築き、天照大御神の元へ復命されたのです。ことに東国の開拓と民生の安定に多大な功績を示したときれています。以上の物語を「日本書記」では、葦原中国(あしはらのなかつくに)平定、または国譲りといいます。


道祖神



御祭神 猿田彦神
 道祖神は、集落のはずれや道の辻などにたたずみ、外部から侵入してくる疫病や災害を防ぐ、教会をつかさどる神様です。
 御祭神の猿田彦神は、天孫降臨に際して邇邇芸命の案内を務めたことから、道案内、導き、交通安全の神様としての側面を持ちます。
 また、道を歩くことから、転じて足腰健康の神様としても、大変厚く崇敬されております。

邇邇芸命→(ににぎのみこと)



諏訪神社


水神宮


?/水神宮

左側は何が刻まれているのか判読できなかった。
右側の小さい方はかろうじて「水神宮」と読めた。


白山神社


神明宮


民謡之碑



文字化を断念・・・。


楽殿


玄恵井之碑

碑文が判読できず、文字化を断念。


家内繁栄健康長寿の亀

 旧亀有村はその昔、亀甲の形を「成す」土地であったことから「亀無」、「亀梨」と呼ばれ、応永五年(1398)「上総国葛西郷厨注文」や永禄二年(1559)「小田原衆所領役帳}にはいずれも「亀無村」「亀梨村」と記載されているが、「なし」の言葉を忌み嫌い、正保元年(1644)江戸幕府による「正保改訂図」の製作から「亀有」としたようです。
 葛飾登録有形文化財「亀形瓦一対」は万延元年(1860)建立された旧社殿の棟瓦として、頭部は龍、胴体が亀という神亀が阿吽一対で両端に置かれたもので、台座の波形は地元中川の波を表していると云われており、「亀有」という地名に因んだ亀を象った棟瓦は全国でも珍しく平成20年現在葛飾区郷土と天文の博物館に寄託されています。
 此の度、香取神社宮司唐松豪夫、美代夫婦の念願であった亀有町氏子の家内繁栄、健康長寿の願いを込めた「亀形瓦一対」を模した狛亀像が建立されました。


少年よ、あの星を目指せ!両さん



こちら葛飾区亀有公園前派出所」は亀有公園前派出所に勤務する下町人情豊かな主人公両津勘吉と、個性あふれる登場人物か織り成す亀有を舞台にしたハチャメチャ人情ギャグ漫画。
東京都葛飾区亀有に生を受け、亀有で育った秋元治さんが昭和五十一年(1976)に「少年ジャンプ」で連載を開始。以降、昭和六十三年(1988)第50巻刊行、平成8年(1996)第100巻刊行、平成十八年(2006)第150巻刊行。そして平成二十二年(2010)3月現在、第168巻を刊行し、現在も連載中。
平成十八年(2006)には連載30周年を迎え、平成二十三年(2011)に35周年を迎える。平成十九年(2007)には連載回数通産1500回を数えた。
この数字は少年誌における最長連載記録として世界にも類をみず、記録は現在も更新中。
単行本の発行部数は累計1億4000万部を越える。
その人気は日本全国のみならず、アジアを中心に世界中から老若男女を問わず愛されている。
地元亀有においては平成十八年(2006)二月、亀有駅北口に両津勘吉像、同年十一月、亀有南口に両津勘吉祭姿像、平成二十一年(2008)十一月には、亀有ゆろろーど内に両津勘吉少年像が建立され、主人公両津勘吉の誰からも愛されるキャラクターから、亀有のシンボルとして、また観光名所として連日多くの観光客が訪れ、亀有地区振興の牽引役を担っている。
この度、平成二十二年三月十三日に、亀有地区商店街協議会の7商店街と亀有香取神社、それぞれ8箇所に主人公両津勘吉をはじめとした作中登場人物中川圭一、秋元カトリーヌ麗子、本田速人銅像を建立、亀有のさらなる発展、行く先を見守り続ける。
亀有香取神社に建立されたこの像名は「少年よ、あの星を目指せ!両さん像」と名付けられ、これからの未来を創る子供達に、どんな時も両さんのように明るく元気に夢を持って歩んで欲しいとの願いが込められている。


キャプテン翼絵馬とサッカーゴール絵馬かけ



 当香取神社並びに境内社である亀有北向道祖神社は、〔勝負事、必勝〕〔足腰健康〕〔スポーツ振興〕の神様として、広く崇敬されております。
 平成二十七年一月、地元葛飾区のサッカークラブチーム〔南葛SC〕が必勝祈願に参拝された縁で、「南葛SCを皆で応援し、益々葛飾区を元気にしよう」との想いから、同年九月、必勝祈願・健脚祈願の「キャプテン翼絵馬」を制作致しました。
 地元企業のセイズ株式会社様より「南葛SCを応援し葛飾区を盛り上げる絵馬ができるなら、ぜひ絵馬かけを」とのご賛同を賜り、このサッカーゴール絵馬かけが、時同じく奉納されました。

 南葛SC
 「常磐クラブ」「葛飾ヴィトアード」が前身。世界中で愛読され、国内外を問わず、多くのプロサッカー選手が影響を受けたと語るサッカー漫画『キャプテン翼』の原作者高橋陽一先生(葛飾区出身)を、平成二十五年、同チーム後援会長に招き、チーム名に同漫画の主人公「大空翼」が所属したサッカークラブ「南葛」の名を冠した。葛飾区からJリーグを目指し、活気に溢れる街づくりに貢献することを目的とする。


両さん達と歩く!亀有MAP



こち亀」の作品内で描かれた実際に存在する場所を示していて、現在の同場所同アングルの写真も作品と見比べられるように載せています。中にはだいぶ様変わりした場所もありますが、殆ど変わっていない場所も多く、「こち亀」作者秋もlと先生の絵では本当に細かい所まで忠実に描かれており、実際に足を運んでみて見比べてみるのも面白いですよ!


鳥居









光明寺


水子地蔵尊









こち亀ゲームパーク




アリオ、3Fにあった。









◆隅田あいあい児童遊園










◆板碑型阿弥陀三尊種子庚申塔

足立区のHPに詳しく載っていた。
板碑型阿弥陀三尊種子庚申塔|足立区



 江戸時代初期の庚申塔は、板碑の形式を受け継いだもので、当時の一般の供養形式を取り入れたものが多い。
 これらは、後の青面金剛像のような刻像塔に対し、文字塔と呼ばれている。種子と文字とで表わされるが、種子には、一尊と阿弥陀三尊とがある。この塔のような阿弥陀三尊種子は、例が少ない。
 この庚申塔も、江戸時代初期のもので、阿弥陀三尊を種子にもつ板碑型の典型的なものである。その形、文字の彫りなと見事なものである。
 造立は、承応二年(1653)の十月。石質は、安山岩(伊豆石)て、碑高131cm、幅52cmである。
 基底部は、下幅が、わずかに広い台形となっていて、蓮池三茎の道蓄と達禁を浮き彫りにしている。
 正面中央の刻銘は「種子奉造立庚申供養待意趣者為二世安楽」である。










常磐線高架

こちらをくぐって線路の反対側(北側)へ。







◆形山松五碑

「新四國八十八ヵ所」の文字などが判読できる。
詳しいことがわからず、「形山松五碑」もこれでいいのかわからない。
ご存じの方がいらっしゃったら教えてください。
ぺこ <(_ _)>



後ろに見えるのが、次の日記の長門八幡神社









続く。