2021/09/07 柴又散歩 02 川甚/柴又帝釈天/柴又帝釈天遺跡/帝釈天参道/柴又のおもちゃ博物館/柴又駅/おりつ地蔵尊

江戸川から離れて西へ進み、柴又駅を目指す。




◆川甚

有名なうなぎ屋さんなんだが、廃業してしまったようだね・・・。
下記の記事によると葛飾区が跡地を買収して展示施設にするようだ。

閉店した老舗料亭「川甚」を葛飾区が取得、展示施設整備へ 「男はつらいよ」舞台:東京新聞 TOKYO Web



敷地内にあった神社。








柴又帝釈天



帝釈堂



 帝釈堂、祖師堂、二天門、には多くの木彫による建築浮彫装飾が施されています。特に帝釈堂は設計林門作、棟梁坂田留吉の指揮の もとに作られました。内陣外側の胴羽目彫刻10枚は法華経説話を題材にして、加藤寅之助・金子光清・木嶋江運・石川信光・横谷光一・石川銀次朗。加府讓正一 山本一芳・今関光次・小林直光等の彫刻師により制作さ れました。大正12年(1923) 9月、 それぞれの彫刻師のもとに運ばれていた欅(ケヤキ)の彫刻材は、 関東大震災によって、すべて焼失しました。 その後棒材を全国に求め、発願から十数年の歳月を費やし、 10枚の胴羽目彫刻は昭和9年に完成しました。
 彫刻の下絵は高山栄州が描いています。胴羽目の寸法はそれぞれ縦1. 27m、横2. 27m 、厚さ20cm襖(ふすま)一枚の大きさです。
 他堂や二天門の内外に、 施された彫刻も、 同じように貴重なものです。


瑞流(ずいりゅう)のマツ



 「帝釈天」の名で知られる経栄山題経寺。その参道から二王門をくぐって境内に入ると正面に帝釈堂が建っており、その帝釈堂の手前、向かって左に生えているのが瑞龍のマツです。
 幹は上方にまっすぐ伸び、大枝は北、南、西の3方に長く伸びています。そのうち、西の枝は石畳に沿うように伸び、南北の枝は帝釈堂を守護するかのように庇の前に伸びています。その生き生きとした姿は、頭を空に向け、尾を西に伸ばして天に昇る「龍」のようです。
 縁起によると、題経寺は寛永六年(1629)創建で、開基の日栄上人が柴又に寄った際、見事な枝ぶりのマツと、その下に霊泉が湧いているのを見つけ、この地に庵を設けたことがその始まりとされています。この時に日栄上人が見た木が、瑞龍のマツとされています。
 瑞龍のマツは、帝釈堂正面と一体となって景観をなしており、また帝釈天題経寺の創建の由来を伝える銘木、巨木として極めて重要です。


天釈迦堂


鐘楼


東日本大震災犠牲者供養塔

合学
2011年3月11日午後2時46分18秒、牡鹿半島の東南東沖約百三十キ口メート付近の海底を震源として発生したマァ二チュード9.0の海底型地震は、未曾有の大津波を引き起し、太平洋に面した象北地方は甚大な被害を受け、激甚炎害として指定されました。この津波の高さは最大で四十メートルに達し、三陸沿岸をはじめとする全国各地で被害をもたらしました。北海道から千葉県にかけて大津波が押し寄せ、岩手県宮城県福島県の三県では海岸沿いの集落や、名取川などの河口周辺から上流に向け教キロメートルにわたる広範囲が水没するなどの基大な被害と出しました。
 また、福島県束京電力福島第一原子力発電所は、大津波で1~4号機の緊急炉心冷却装置稼働用の非常電源が故障し、政府は原子力緊急事態を宣言し三十キ口メートル圏内の周辺住民に避難指示が出されました。原発事故発生から東京電力、消防、自衛隊、警察の多くの方々が命がけで冷却作業を行いました。さらに放射能による環境汚染も深剣な問題となりました。

 東日本大震災によって亡くなられた方は一万五八三三人、行方不羽者三六七一人と発表されました。
 法華経の不軽品に「臨命終時」、全搭品に「臨滅度時」日連聖人御遺文「生死一大事血脈妙」に「臨終只今」とあります。心が散乱動揺せず、安定し正しく仏を想念し続け、迷妾を断って正しいさとりの智慧を得ることが仏教徒普遍の願いですが、死期に臨んでも心乱れることなく、 平常心を持続し、仏道成読を正しく念じつつ、死を迎えることをいいます。
 この大地震により亡くなられた方々の多くは、津波、建造物崩壕などにより、瞬時に亡くなられた方々と推察され支す。「臨命終時」「臨滅度時」「臨終只今」における誰しもが望む普遍の顧いである仏道成就を正しく念じつつ、元を迎えるという願いは果たされなかったのではないでしょうか。
ここに碑を建立し、亡くなられた方々の御霊に対し慰霊の念を捧げ、冥福を祈リ、御魂を供養するものであります。
再拝


人生劇場 青春立志の碑

遺す言葉
 死生命ありだ。くよくよすることは一つもない。お前も父の血をうけついでいるのだから、心は弱く、涙にもろいかも知れぬが、人生に対する抵抗力だけは持っているだろう。あとは、千変万化だ。運命の神様はときどき妙な、いたずらをする。しかし、そこで、くじけるな。くじけたら最後だ。堂々とゆけ。よしんば、中道にして倒れたところで、いいではないか。永生は人間にゆるされてはいない。父は地獄へゆくか極楽へゆくか知らぬが、見ろよ、高い山から谷底見れば瓜やなすびの花ざかりだ。父は爛々たる目を輝かして、大地の底から、お前の前途を見まもっていてやるぞ。
尾崎士郎

『尾崎 士郎(おざき しろう、1898年(明治31年)2月5日 - 1964年(昭和39年)2月19日)は、日本の小説家。新聞連載小説『人生劇場』がヒットし、流行作家になった。』
尾崎士郎 - Wikipedia


帝釈天出現由来碑(左)/草木供養之碑(右)

人類は平和で緑豊かな環境で暮らしたいものです。社会に見られる都市開発が日々と進み快適さ、利便性を求め、実益を優先して様々な建設工事が激増して居ります。此の事は其れなりに意義あるもので御座居ますが、其の都度多くの草木が失われ、やがて地球温暖化に繋がってしまいます。自然環境は守りたいものです。土の恵みを伝え、植樹する時も自分の心に木を植える事と思い、草木を愛し、現在ある緑の保全と、小さな緑を広げ緑に覆われた地球を創り出したいものです。祖の様な事を念頭において、建設事業に携わる東京造園業組合員一同は、草木に思いを起こし、感謝をこめて、心よりの草木供養之碑建立を決意致しました。なお僭越ですが、社会の皆々様にお呼びかけをして、御一緒に手を取り合って草木の大切さを語り合える場所にもしたいと思います。幸いにも東京都知事石原慎太郎様より題字の揮毫を戴き、その上柴又帝釈天題経寺住職望月日翔様、望月洋靖様の御厚情により、多年念願であった、緑を大切にするための草木供養之碑建立を達成する事が出来ました。



帝釈天出現由来碑
 この碑は、安永8年(1779)題経寺本堂改修のとき発見した日蓮聖人自刻の帝釈天坂本尊を後世に伝えるため、弘化2年(1845)俳人鈴木松什および檀徒石渡忠右衛門等が協力し、その由来を記し、併せて帝釈天の功徳を述べている。
 碑の総高1.48メートル、撰文は宮澤雉神遊、書は萩原翬、刻者は窪世昌である。題経寺縁起の整ったものは、明治29年(1896)に作成されたが、碑は、それ以前における由緒資料として貴重である。


浄行菩薩


神水


二天門


二天門左横の門

境内のマップにも特に名前が見当たらなかった。


南大門








柴又帝釈天遺跡

 この一帯は柴又帝釈天を中心に分布する古墳時代後期から奈良・平安時代の遺跡地です。柴又は、奈良の正倉院に伝わる日本古代史上著名な「養老5年(721)下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」に記載されている嶋俣里の故地として知られています。
 最近の調査では、古代の住居跡・井戸跡や多量の土師器・須恵器などが出土しており、郷土「かつしか」の歴史を知る上でも、貴重な遺跡です。









帝釈天参道

帝釈天から柴又駅へ向かう。














私生まれも育ちも東京葛飾柴又です 帝釈天で産湯を使い 姓は車 名は寅次郎 人呼んでフーテンの寅と発します
山田洋次


『山田 洋次(やまだ ようじ、1931年9月13日 - )は、日本の映画監督、脚本家、演出家。 大阪府豊中市出身。東京大学法学部卒業。川島雄三野村芳太郎の助監督を経て1961年に『二階の他人』でデビュー。『男はつらいよ』シリーズなど人情劇を発表し、現役でキネマ旬報ベストテンに最多入賞した監督。日本映画界の第一人者。紫綬褒章(1996年)、文化功労者(2004年)、文化勲章(2012年)受章。日本芸術院会員。財団法人いわさきちひろ記念事業団理事長。関西大学大学院文学研究科および立命館大学映像学部の客員教授文化学院の特別講師。日本映画監督協会会員。妻は「平塚らいてうの記録映画を上映する会」副会長を務めた山田よし恵(1932年5月23日 - 2008年11月8日)。次女はBS-TBSプロデューサーの山田亜樹(1963年9月14日 - )。 』
山田洋次 - Wikipedia




さくら「あのね、お兄ちゃん、辛いことがあったら、いつでも帰っておいでね」
寅  「さくら、そのことだけどよ。そんな考えだから、俺はいつまでも一人前に・・・・・故郷ってやつはよ・・・・」









◆柴又のおもちゃ博物館

コロナが収束したら行ってみよう。








柴又駅



マップ

ようこそ 柴又へ
ここ柴又を舞台に描かれた映画「男はつらいよ」シリーズには、故郷を思う寅さんの名台詞が数多く登場してきます。
柴又の空気感や人情味がたっぷり感じられる言葉を選び「寅さんふるさと名言集」として紹介させていただきました。
この名言集と共に、柴又の散策を楽しんでいただければ幸いです。


国選定重要文化的景観 葛飾柴又の文化的景観

中心部
帝釈天題経寺
 帝釈天題経寺は、 庚申信仰により参詣客を集めた江戸近郊の流行寺の一つでした。 江戸時代から近代にかけて、旧堂を改造、 移築しながら新堂を加える独特の造営過程によって整えられたものです。 境内からは奈良時代の遺構も発見されています。
帝釈天題経寺門前 
 帝釈天題経寺の門前は緩やかに湾曲する通りに沿って店頭対面販売形式の店舗が連続しています。周辺農家が副業的に店を営んだことから始まり、 その地割や建物形式、販売品目等から、 その歴史を読み取ることができます。

周辺部
③国分道(帝釈道) 沿い
 古来、矢切に向かう街道が通る微高地に、 柴又ハ幡神社、真勝寺や旧家が残り、 江戸近郊の農村における居住域であったことを伝えています。
帝釈天題経寺南方 江戸川河川敷沿い
 帝釈天題経寺の南側から江戸川河川敷に沿った微高地に旧家が存在しています。 和洋折衷の建物と和風庭園からなる「山本亭」 は関東大震災を機に所有者が移り住み造られました。

縁辺部
⑤柴又用水の受水域
 かつて柴又用水やその支流が縦横にめぐっていた農地でした。水路跡に加え、 関東大震災を機に移転してきた宝生院を見ることができます。
⑥金町浄水場と取水塔
 微高地の北側に位置する金町浄水場は大正 15 年に給水を開始し、拡張を繰り返し今日に至ります。
⑦江戸川と河川敷
 江戸川とその河川敷は近世近代にかけて改修が重ねられ、江戸川舟運や渡河交通の拠点となっていました。矢切の渡しがその歴史を伝えています。

柴又の成り立ち
 柴又は葛飾区の東部、 江戸川右岸の微高地(海抜約 2~3メートルの土地)に位置しています。 6世紀以降、標高の高い場所に集落が形成され、現在の柴又八幡神社本殿裏にあたる場所に古墳が造られたと考えられています。
 古代から近世初頭にかけて柴又八幡神社の前を通る古い街道である国分道(こくぶみち)は、 帝釈道(たいしゃくみち)とともに太日川(ふといがわ) (現在の江戸川)対岸の下総国の渡河地点に繋がり、 柴又の南北を走る旧東海道水戸街道を柴又で繋げる役割を果たしたため、柴又は水陸交通の要衝の地として機能し、 多くの人や物資が行き交いました。
 1629 年に帝釈天題経寺が開かれ、1779 年に帝釈天板本尊が発見されると参詣が急増します。 また、 1835年に柴又用水が開削されると農作物の生産量が増え、 江戸の食糧供給地として成長を遂げていきました。
 明治中期以降、帝釈天の参道沿いには近隣農家が副業として煎餅屋や料亭を営み始めます。明治の帝釈人車鉄道の開業、大正の京成電気軌道による鉄道網の整備により多くの人が行き来するようになり、 東京近郊の行楽地として今日見られる門前の景観が形成されました。
 近代、特に関東大震災 (1923 年) 以降の急激な人口増加を背景に、 大正時代には金町浄水場の開設、 昭和初
期には区画整理などが行われました。 戦後のさらなる都市化を経て今日に至っています。

重要文化的景観の選定について
 文化的景観とは、地域の風土を活かして人々が暮らしの中で作り上げてきた景観のことです。この風土、暮らしに着目すると、 葛飾柴又の文化的景観は「中心部」「周辺部」 「緑辺部」の3つのエリアとして捉えることができます。 江戸川近くで古代から続く人々の生活や往来を基底とし
ながら、近世に開基された帝釈天題経寺と近代になって発展したその門前が「中心部」 にあり、その基盤となったかつての農村の様子を伝える 「周辺部」がその周囲を包み、さらにその外側を19 世紀以降、都市近郊の産業基盤や社会基盤の整備が行われた 「縁辺部」 が取り囲んでいます。各エリアには、それぞれの特徴を示す帝釈天題経寺や参道店舗、 柴又八幡神社をはじめとした社寺、旧家や農地、金町浄水場などが現存するとともに、 柴又用水のように機能は失われていても、その痕跡を確認できるものも多くあります。
 こうした葛飾柴又の文化的景観が評価されるとともに、葛飾区として保存計画を策定し、 文化的景観を保存するための取り組みを行っていることが認められ、 2018年2月 13日に文化的景観のうち特に重要なものであるとされる国の重要文化的景観に選定されました。








◆おりつ地蔵尊



昭和七年当町で、肉親のために尊き生命を絶たれたとゆう悲惨事があった。
其れは或る貧困の家庭に五人の子供があり、その三女律子を他家へ養女として出したものの、五才の時故あって実家に戻されたが、何故か両親は何の罪科もない律子を虐待し、果ては実父がなぐり殺して、その死体を床下に埋めたが、約一ヶ年余の後に父親の胸に、頑是ない少女の浄き魂がよみがへり、良心の呵責に堪えかねて、亀有警察署に自首した。
同じ人の子と生まれながら肉親の慈愛にも恵まれず、反って憎しみの的となり責苦の果てはかなく世を去った律子を隣り近所の人々の同情は世の中の大なる声となり、涙と共に涌き出でて遂に有志相寄りおりつ地蔵尊を建立する事となった。これに詣でて吾子の無事を祈る人々に御利益が授けられた。これが現在のおりつ地蔵尊であります。








続く。