2021/09/06 柴又散歩 06 高砂天祖神社/高砂宮前児童遊園/京成線高架/観蔵寺/高砂福祉館/大秀寺/崇福寺

前の日記「お地蔵さん」の後は北上。
京成本線をくぐってまた北上する。
すぐ西側に通っている単線の線路は「新金貨物線(しんきんかもつせん)」というんだね。
初めて知った・・・。

『新金貨物線(しんきんかもつせん)は、東京都江戸川区にある小岩駅[1]と葛飾区にある金町駅[1]を結ぶ総武本線の貨物支線の通称である。路線名は新金線(しんきんせん)と呼ばれる。 』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E9%87%91%E8%B2%A8%E7%89%A9%E7%B7%9A


旅客路線化構想があるとのことだが、実現したら便利になるだろうなあ。






高砂天祖神社

以前来たことがある。
2017/04/27 京成高砂散歩 高砂天祖神社/サイカチの木/朝日神社/青龍神社 - ovanの社会科見学



当神社は 鎌倉時代に当時の領主 葛西清重氏の勧請により伊勢神宮 鹿島神宮 香取神宮 から分霊を受け創建し 古くは 「三社明神」と称したと伝えられます。社蔵の棟札には(現、高 砂)
寛永十年 (1633) 九月遷宮下総国葛飾郡葛飾荘 曲金郷 新宿村(現、鎌 倉)細田曼荼羅村 惣氏子百姓中云々 」とあり 附近の郷の総鎮守として崇められていた事が記されています。現在の社殿は二十年に一度建て替えられる伊勢神宮式年遷宮の材を頂き昭和三十六年 (1961)に再建され その後も氏子の皆様からのご賛同を頂き 平成二十八年(2016)に「御社殿造営五十五年 」「社務所新築二十五年 」の記念として 社殿と渡殿の屋根銅板総葺替及び壁面の洗いが施され 御造営当時を思わせる荘厳な社殿に甦り現在に至ります。



天照大御神と言えば、 八吉方の神様の中でも太陽を司る最高神伊勢神宮のご祭神で皇室祖神、 そして天岩戸神話などでもご存知かも知れません。 ここでは、神社参拝について考えて行きます。 天照大御神は、 孫神に当たる遡測芸命(ににぎのみこと)に地上の国を統治するようにと命じ、 三種の神器の一つとして八随鏡(やたのかがみ)を「この鏡を我が御魂として斎(いつ)き奉れ」と授け、高天原(たかまのはら)から地上に降臨させました。多くの神社に神様が宿られる依代(よりしろ)として御鏡が祀られているのはこれに由来します。鏡の解釈の一つに、鏡から我(が)を取ると神になるというのが有ります。 御鏡は 自身の姿を写し 心を映します。 御鏡を通して神様と向き合い自分の心中にある神を誠実で素直な心で見つめ直す。 神社参拝とは、日々の生活を振り返り、知らず知らずのうちに触れた罪や穢れに気づき、 本来の自分自神を取り戻す行為とも言えそうです。 毎月1日、 15日は 社殿正面の扉をを開けております。 月詣りを始めて、 清々しい気持ちでご参拝されてみてはいかがでしょうか?


八雲神社



ご祭神の素蓋雄命は、天照天御神の弟神です。 バ俣大蛇(やまたのおろち)を退治しその尾から天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、後の三種の神器の一つ 「草薙の剣」を取り出し 天照大御神に献上した勇敢な神様です。 八俣大蛇から助けた櫛名田比売命(くしなだひめのみこと)と結ばれて多くの御子神をもうけ、幸せな家庭を築いた神としても知られています。. スサノオの「スサ」には「荒ぶる・清浄」の二重の意味があり、 罪・穢れ・災い等、 身に降り掛かる悪しき諸々を 荒々しい程の強い力で破い清める 「災応除けの神」
と言われています。 八雲神社の名の由来は、 素蓋雄命が櫛名田比売命と住む新天地を探して出雲の地を訪れた際に詠んだ 日本最古の和歌 「 八雲立つ出雲八重垣妻龍みに 八重垣作る その八重垣を」に因みます。
神明造りの社殿は、 昭和十八年六月に 現在の八雲公園から移され天祖神社の境内に合祀されました。 毎年 六月十五日に、神社の役員・総代参列の上「八雲祭」が執り行われます。


稲荷神社



昔の人々は、神様は 春になると山から降りてきて「田畑の神」 となり、秋になって五穀豊穣をもたらして収穫が終わると山に帰って 「山の神」になると考えていたそうです。 同じ様に春になると山から人里に下りてきて田畑を荒らす嵐などを捕まえて、そして秋になって収穫が終わると見かけなくなる狐の行動や 狐の尾の形や色が実った稲穂に似ている事から「狐は神様の使い」と言われる様になったとの事です。
稲荷神社は、農業に携わる「農民の神社」 として全国津々浦々で信仰されてきましたが、その後、江戸時代になって商業や工業が盛んになると「庶民の神社」として商売繁盛・開運出世・家内安全の神様としても記られる様になりました。また狐のお産が軽く、安産である事から安産祈願もされている様です。毎年、旧暦の初午の日に、沢山の赤いのぼりを立てて 初午講による「稲荷祭」が執り行われます。


道祖神



道祖神は、古くから町内交通の安全と悪人の侵入を防ぐ神様として絶られてきました。 昭和三十七年三月の水路改修の際に天祖神社の境内に移設されました。 ご祭神の猿田彦大神は、記紀神話(ききしんわ)の中で天照天御神の孫に当たる邇邇芸命(ににぎのみこと)の天孫降臨(てんそんこうりん)に際して先導をした「導きの神」 として知られ天宇受売命は天岩戸隠れの場面で舞い踊りを演じて 天照大御神が岩戸から出て来る様にしむける 「芸能の女神」 として知られています。
天孫降臨の道案内の為に迎えに来ていた猿田彦大神に 天宇受売命が名前を尋ねた縁で二神は結ばれ結婚しました。道祖神は、この夫婦二神の姿を描いているのが多いいそうです。地域によっては、猿田彦大神を「天狗さん」、天宇受売命を「お多福さん」と親しみを込めて呼んで、 町内安全・開運招福・芸能上達・美容祈願・夫婦和合・縁結び恋愛成就などの祈願を良い方向に導いてくれる神様として信仰されています。


楽殿


石塔など













高砂宮前児童遊園











◆京成線高架

こちらをくぐって反対側(北側)へ。
高さ2mってすごいね・・・・。












◆観蔵寺


石塔

左側は庚申塔かな?


山門











高砂福祉館

HPがあった。
高砂福祉館











◆大秀寺












崇福寺



德川家康が江戸幕府を開く三年前 の慶長五年三月 (1600年)香山泰厳和尚が日本橋浜町に崇福庵を建立しました。
慶長十八年(1613年)上野厩橋藩(こうずけうまやばしはん)(前橋城主) 酒井雅楽頭忠世(さかいうたのかみただよ)の帰依により堂舎を建立し、国府台の総寧寺(そうねいじ)を本寺とし名称を崇福寺としました。1657年、明暦の大火にて焼失した為、忠世の孫、忠清の代に、浅草松清町(現在の浅草郵便局一带)に千三百坪の土地を拝領し移転、本堂を再建しました。以来酒井家の江戸の菩提寺として永く栄えました。その為酒井家の家紋である「劍鳩酸草(けんかたばみ)」を寺の紋として使用しています。
酒井家は德川氏の最古参の譜代筆頭で、徳川幕府大老四家の一つに数えられ、一族から大老や老中を輩出し、代々雅楽頭を任じられていました。また江戸城大手門付近の酒井家上屋敷の中庭には平将門公の首塚があり酒井家により手厚く祀られ、崇福寺の住職も首塚に供養に出向いていました。
大正十二年九月の関東大震災にて被災し、昭和三年六月浅草よりここ高砂に移転、同八年本堂・山門・鐘揍等を再建しました。酒井雅楽頭歴代の墓所群馬県前橋市の龍海院にあり、ここ崇福寺は酒井雅楽頭家、伊勢崎藩酒井家の墓所となっております。

雅楽頭(うたのかみ)
雅楽寮 (ががくりょう) の長官。

雅楽寮(ががくりょう)
律令制の官司の一。治部省に属し、雅楽・楽人などのことをつかさどり、歌舞を教習した。


酒井家墓所



酒井雅楽頭忠清の三男忠寛(ただひろ)は兄の忠拳より二万石を分与され、 伊勢崎藩を立藩し 九代まで続き幕末となりま した。浅草の崇福寺には初代と六代左除く伊勢崎藩酒井家歷代藩主、忠清の弟忠能(ただよし)などの酒井家一族が埋葬されまLたが、この地に移転の際に合葬されました。
石塔があるのは左奥より
酒井宗魯大居士、三代酒井忠温(ただはる)
酒井培堂大居士、七代酒井忠恒(ただつね)
彰德院殿移山南瑛大居士、九代忠彰(ただあきら)
敬德院殿慈海貞争大姉 妻 敬子


鐘楼


石塔など


山門










続く。