2021/09/17 江戸川中央散歩 04 湯パーク松島/小松菜屋敷/新小岩香取神社/江戸信横丁/松島歩道橋/小松川境川親水公園/東小松川香取神社

どんどん南下して千葉街道へ。
さらに千葉街道を南下。




◆湯パーク松島

銭湯♪







小松菜屋



 八代将軍徳川吉宗(有徳院)は、「鷹将軍」と異名のあるほど鷹狩りを好み、湿地帯が多く好狩場であった葛西領の、特に現在の江戸川区には76回も訪れている。
 将軍が鷹狩りに来られた際、食事をとる所を「御膳所」といい近くの社寺が利用された。
 亀井家(昔より土地の人々に「いづみ様」とよばれて来た)に伝わる話として、享保四年(1719)に吉宗公が来られた際、西小松川村の間々井の森の香取社で、ときの神主・亀井和泉守が、餅の清まし汁に冬菜を添えて差し上げたところ、将軍はその冬菜の香味を大変喜ばれた。未だこの菜に名前がなかったところから、小松川の里の名ゆえに「小松菜」と命名されたと伝えられている。






新小岩香取神社

一度着たことがる。
2018/02/12 船堀散歩 05 新小岩香取神社/鏡山部屋/新小岩八坂神社/高津橋社/高津橋 - ovanの社会科見学



神 社 の 由来
 香取神社は別名を問々井神社と稀し、棟礼によると、元和三年(1617年)に再建されたご神徳の多い有難い神社です。
 その当時より、社の東に流れる小松川(親水公公園)は、下総、国府台真間と武蔵江戸域を結ぶ重要な水路でありました。伝説によれば、長録の頃、太田道灌持資は、国府台控城に往来の時、この神社に舟を泊め、境内の霊水を吸み、船路の安全を祈願したので間々井神社と稱される様になったことを伝えています。
 当時は、当地に十六軒の農家しか有りませんでした. 荒地を耕し苦労の末、切り調いた のです。その小松川十六軒農家が当神社の創立をしたと言います。天正十八年には徳川家康江戸入城となり、産物の販路も開け農民も豊かになりましたが、丙午(ひのえうま)年毎に襲う大洪水に(天明六年)人馬穀類共に大飢餓に遭遇した事が記されてあります。
 現在の本慶は文政五年(1833年)今より約百七十年前、用材を仕入れ、五分一に住む宮大工八郎次が十年の歳月を経て、天保三年に完成させた名建築物であります。
 明治六年には太政官より地祖改正のお触れがあり、村民はそのお触れに従い土地調査事業に着手、村内の精密な地図を作成、式蔵国葛飾郡西小松川村全園が出来、初代知事により検認されました。
 その武蔵国葛飾郡西小松川村全図は 江戸川区有形文化財に指定これ当神社に保存とれて居ります。
 達い長録の時代より平成の今回迄、有難いご祭神のご神徳に感謝しその霊験を載き、信ずる人々の念願の達成をお祈り申し、合掌致します。


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 旧西小松川村の鎮守である。昔この辺一帯が芦原で船が自由に往来できた頃、その中に浮かぶ道ヶ島と いう小高い島に、下総国の香取大神宮より経津主命(ふつぬしのみこと)の分霊を祀ったのが、香取神社勧請の由緒といわ れる。当時国府台間々(こうのだいまま)の入江から、武蔵国上野の台地に向かう船は、この神社の森を船路の目安としたので、間々井宮と称したと伝えられている。
 こ の社は元和五年(1619)の棟札を所蔵する古社で、亀井和泉守源永好(かめいいずみのかみみなもとのながよし)以来代々亀井家が神宮をつとめ、葛西領開拓神秘歌とその舞いを伝えている。現在の本殿は総欅(けやき)造りで、氏子大工牧野八郎次が十年の歳月を費やし、天保四年(1833)に竣工した建物である。
 境內には松尾芭蕉の「秋に添うて行かばや末は小松川」の句を刻んだ碑が建って いる。



 享保4年(1719)、八代将軍吉宗が鷹狩をするときの食事をする場所として、当道灌島香取神社が選ばれ、時の神主亀井和泉守永範がそのお役を受けた。しかし、これといって差し上げるものもなかったので、餅のすまし汁に青菜を少々、彩りとしてあしらって差し出すと、吉宗は大変喜ばれ、この菜をこの地にちなんで「小松菜」と命名されたと伝えられています。それ以来、当社の祭事には必ず小松菜を神前に供えて氏子永代の反映を祈願しています。
 文化元年(1804)の「成形図説」には、「小松川地方で産する菜は、茎円くしてすこし青く味旨し」とあり、文政11年(1828)の「新編武蔵風土記稿」には、「菘 東葛西小松川辺の産を佳品とす。世に小松菘と称せり」と記されています。
 味のよい優れた菜類として江戸の人々に喜ばれた小松菜は江戸川区の特産野菜となりました。


小松菜ゆかりの里の碑


大雷神

 大雷神は、俗に「一之江の一つかみなり」と称賛され往古より当地の農業文化に深い貢献を施し深く信仰を重ね、その使命を果してまいり、東一之江村の福島家に江戸時代よりお犯りされてまいりました。
 田植の李節には時々、北は日光より降りて来る雷、西は秩父の山々より降りてくる雷、南は大平洋の雷、東は筑波より降りてくる雷、これらの雷達が一天に集まり風雨をともない、ごろごろと威力を争い合い鳴り渡ります。
 子供達の教訓として「おへそを隠せ」の言葉の掛かる頃、此の時が大雷神の出番なのです。耳をツンザク音と共に他の雷を征服して仕舞います。これが地域の人々の言う「一之江の一つかみなり」なのです。
 六月十五日間近になると、この雷が出現、農民達は田植作業を終らせて、この雷様のお祭に参加致します。それが農業の手休みの一日として楽しみながら、「オシャラク」の舞や出店がたくさん出て賑やかになります。其の日は講社の人々、近在の人々の参拝も数多くあり、あとを断たなかったのです。
 昭和六十三年、この大雷神の世話人の不在の為、香取神社と上一之江氏子総代一同の協議の結果、当社境内に遷速碑致すこととなり、児童の教育と大雷神、間々井神社の信仰を深める為に、例年六月十五日には、水神祭に併せて例祭を復興することとなりました。大雷神を奉脊して家内安全、家業繁昌、無病息災をお祈り致します。


水神様



 水神社は『ミヅハノメノミコト』をお祀りりし、昔より現在の松島三丁目二十六番に永くお祀りされて居りました。
 土地の整理の為、昭和三十五年に当神社境内に移転となりました。六月十五日は、昔より祭日に定められて居りまして、農業の水利と船の安全を祈る祭として盛大な祭が行われて居りました。
 平成元年より、上一之江大雷神と共に合同祭が執り行われます。


鏝塚

鏝(こて)


境内社

何がお祀りされているのかわからなかった。


稲荷神社

 稲荷神社は「トヨウケヒメノミコト」をお祀り致し、当社は俗に「アリマイナリ」と申されて居ります。昔は今の松島3丁目27番にお祀りされて居りましたが、土地整理の為、境内に移転となりました。
 例年初午を例祭と致し、稲荷講の行事がありまして、各村々の子供達が参加して一夜を楽しみました。
 現在、祭典は3月1日道祖神と共に行われます。産業発展の神として日本全国各地にもお祀りされて居ります。


道祖神



 当神社の道祖神は「猿田彦の命」をお祀りしてあります。この村が創立した頃より、昭和35年頃迄現在の松島2丁目10番の地に鎮座されて居りましたが、土地整理の為当社の境内に移転になりました。
 通行人の道を守ることと、村に悪霊の侵入を防ぐ為に祀られましたが、後に人体の筋を守ることも、この神様が司り、目、耳、足、腰の筋をお守りして居ります。
 草履や食器の中に穴を空け、道祖神に奉納してその快復をお祈り致します。体の悪い部分をよく撫でて参拝してください。
 又、お正月の「どんど焼き」は「どうそじん焼き」からの行事です。その他、道ヶ島の旧地名等も「道祖が島」から転じた地名とも思われます。


鷲神社



 大鳥神社とも称し、祭神は「ヤマトタケルノミコト」です。例年11月酉日に「新小岩のおとり様」と多くの信者に親しまれて盛大なお祭が行われます。
 境内では、福熊手(かっこめ)の授与があり、参拝者の家々の隆盛、商売繁盛をお守り致します。
 酉祭の末日には、伝統の暮目の舜神楽が奉納され福御縁の授与が行われます。


楽殿


弓取の儀について



 弓は密教の法具として魔や敵を打ち払う力の象徴として用いられている。
 当地が未だ利根川の本流だったころ、下総 国府台 間々の入江よりはるか西南の沖に浮かぶ道ヶ島の伝説が神楽になって伝えられて来ました。
 この島は下総国武蔵国を結ぶ船路の中継所で大変重要な位置にありました。。丙午毎に来る災難に島民は怯え鎮守の杜に集まり悪魔を払う弓取の神事に一年の安泰を祈りました。

●鳥(ほととぎす)なほも雲上(くもえ)に外(のぼ)るかな 引張月のいるにまかせて

 と歌いながら弓の振りに悪霊等を雲上に追い破ったことでしょう。弓張月とは上弦、下弦の月の形態でこの月の沈むころ悪霊等も消え去ったことでありましょう。六百年後の今日この神事があることは奇跡中の奇跡とでも云ふべきでしょう。

●はIMEパッドで探したけど漢字が出てこなかった。


鳥居






◆江戸信横丁

商店街♪
中は通らなかった。






◆松島歩道橋

下は平和橋通り








小松川境川親水公園










◆東小松川香取神社

再訪したのでページをまとめています。
2023/09/19 東小松川香取神社 - ovanの社会科見学






続く。