2021/09/19 小岩散歩 02 西井堀橋児童遊園/古代の湯/妙厳寺/奥戸湯/奥戸天祖神社/奥戸総合スポーツセンター/三和橋

西井堀緑道をひたすら北西へ歩く。
奥戸街道へ出たところあたりをいろいろ巡って細い路地へ入り、また北西へ歩いていく。
三和橋で新中川を渡る。





◆西井堀橋児童遊園








◆東京天然温泉古代の湯

温泉施設だね。








妙厳寺



金銅華曼 二面
華曼は、もともとインドにおいて生花を紐で結んで連ね、環にして首にかける服飾品ですが、わが国や中国では、仏堂の内陣長押に垂らす荘厳具となっています。
2面とも裏面中央の紐紋の間に「為冷泉戒浄善女佛果也 享保十八癸丑天(1733)十一月十三日 施主村越氏」の3行の彫銘があり、江戸時代中期の妙厳寺の興隆期をうかがわせる遺品です。施主の村越氏は代々勘右衛門を名乗る有力檀家の一つで、「冷泉戒浄善女」の名は同寺の過去帳に記載がみられます。

木彫地蔵菩薩
この地蔵菩薩像は、岩座上の半跏踏下げ像で、重層の蓮華座上に像を安じ、内側をくり抜いた宝珠形が像にかぶせてあり、それをはずすと尊像があらわれるようになっています。
像背面に「為宝誉栄三菩提、照明寺栄範敬白」、台座の底面に「天文二丁巳天(1737)十月十日」の銘がありますが、制作仏師名や像の由来等は不詳です。
小像ではありますが、宝珠の中から地蔵が出現するという特異な構想が注目され、また彫技も優れています。

十三仏信仰関係遺品 一括
十三仏信仰は中世におこり、初七日から三十三回忌までの13回の法事に礼拝する仏・菩薩を定めて供養したものです。
近世になると各村落の念仏講中などでその十三仏の絵図を作り祖霊の供養を行うようになり、大いに普及しました。


鐘楼


地蔵堂/大師堂/大山堂


山へ空へ 摩詞般若波羅審多心経 山頭火

車が邪魔。。。。。



放浪·漂白流転の人生を送った行乞僧、種田山頭火
昭和七年の句である。日く、「私は近年、人間に食傷したやうだ、私はまだ人間を全面に掴んでるないのだ、これては旅に出る外ない」と。
求道の決意堅固なれど頬悩を脱し得ず、求願に徹し、自然を友として行乞を続ける。
されど真摯なるが故に却って破戒と偽善を生み、己の醜さと激しく対崎して、やりきれない内実の矛盾がぶつかり、山川・一木一草の気息を触発して一気に絶唱した句であり、魂の詩である。
般若心経は悟道への「道しるべ」を綴った二百六十二文字の仏教の中心経典である。


山門








奥戸

銭湯だと思っていたら、ディサービスの施設のようだね。
って、前にも来ていた・・・・。
2018/09/20 奥戸・四つ木散歩 02 宝蔵院/妙法寺/奥戸湯/奥戸天祖神社/奥戸総合スポーツセンター/奥戸水神社/ 奥戸馬頭地蔵尊 - ovanの社会科見学


介護事業−デイサービスセンター 健遊館 銭湯 奥戸湯









奥戸天祖神社

こちらも以前に2度来ている。
2017/06/26 新小岩散歩 03 奥戸天祖神社/八剱神社/新奥戸橋/上一色天祖神社/上一色橋 - ovanの社会科見学
2018/09/20 奥戸・四つ木散歩 02 宝蔵院/妙法寺/奥戸湯/奥戸天祖神社/奥戸総合スポーツセンター/奥戸水神社/ 奥戸馬頭地蔵尊 - ovanの社会科見学


大しめ縄神事

 奥戸天祖神社で毎年10月に行われる祭礼「大しめ縄神事」では、稲藁を用いて、約6メートルにもおよぶ大しめ縄を作り、「アクマバライ」と称して旧村内を担いでまわります。以前は「雄じめ・雌じめ」と呼ばれる2本の縄を作り、急村内をまわった後、神社境内にあった榎に掛けられていました。その後、大しめ縄は1本となり、正面鳥居に掛けられ、さらに平成9年には氏子によって新たに石柱が立てられ、ここに掛けられるようになりました。大しめ縄には、氏子の各家から持ち寄った稲藁を用いていましたが、今日では、区内で稲作がほとんど行われなくなったため、材料の稲藁は千葉県から入手しています。
 神社には祭礼の記録である「年番帳」 が嘉永年間 (1848~) 以降から保存されています。それによると、祭礼は明治27年 (1894) までは「舞社神事」として2月1日に行っていましたが同28年からは取決めによって10月に変更したことがわかります。


稲荷神社


諏訪神社/御岳神社/浅間神社/第六天社/風雨神社/出羽三山神社

諏訪神社

御岳神社

浅間神社

第六天社

風雨神社

出羽三山神社


力石


奥戸連句



本体の高さ159センチ、幅50センチ、奥行11センチ。台石の高さ22センチ、幅66センチ、奥行43センチ。
題字は「趣長辞短」で、その下を4段に区切り、奥戸を中心とした人々の俳句を各宗匠撰別に列挙してあります。
右下の欄外に「明治二十年亥一月吉辰」、左下の欄外に「関 清太郎謹書・当村石工 遠田清吉彫刻」とあり、この地域に俳句が盛んであったことをしのぶことができます。


鳥居1


鳥居2








奥戸総合スポーツセンター











◆三和橋

下は新中川。





『会話が弹む、笑顏がこばれるふれあいの橋』
 この整備コンセプトは、周辺地域の自治町会長、商店会長、小中学校PTA会長及び一般公募の方々で構成された「三和橋橋づくり協議会」で決定し、平成13年3月に葛飾区へ提言したものです。

粉梁概票
橋長:119m
幅員:18m (車道9m、歩道4.5m×2)
※ここから下は文字の判別ができない・・。

三和場の歴史
昭和36年に架橋された三和橋車道橋は中川放水路(新中川)の開削によって分断された細田高砂奥戸の三つの地域の中心に位置することから、地域融合のシンボルとなり、コミュニティー形成の拠点となってほしいという願いを込め「三和橋」と名付けられました。
 架橋から40年以上が経過して、老朽化が進み、耐震性の問題もあったため、平成12年の掛替計画段階から三和橋橋づくり協議会と葛飾区が協働で検討を進め、平成15年に架け替え工事に着手しました。
 この記念碑に埋め込んだレリーフは、旧三和橋人道橋の高覧に設置していたものを出あり、旧橋の記憶を未来に継承するシンボルとして生まれ変わりました。


葛飾区北沼公園船着場








続く。