どんどん東へ歩いていく。
◆上平井集い交流館
葛飾区の施設。
会議室など借りられるみたいだね。
施設案内 上平井集い交流館|葛飾区公式サイト
当園の敷地は、米殻商を営んでいた実業家の外谷灘次郎(そとやべんじろう)氏のご遺族から葛節区に寄贈されたものであります。そして葛節区が既存の庭園跡を改修し、整備したものであります。
外谷氏が大正十二年の関東大震災後、この地に邸宅を構えてから、庭づくりが始められ、昭和八年頃に、現在の池や築山などの原形がほぼ出来上がりました。
池には、敷地の西方を流れている中川の水を引き入れていた堰が残っています。これは当時水源を確保するとともに海の干満にあわせて、池の汀(みぎわ)と水面の様相の変化を楽しむいわゆる「汐入り庭園」を模したからであります。
また、庭石は紀州・筑波・伊豆小豆島など全国から産出される十九種類の自然石が使われ、他に石灯篭や石塔などもふんだんに配されており、大正から昭和初期の潤沢な古き良き時代の面影を残しています。
安政2年(1855)10月2日夜、直下型大地震が江戸の街を襲いました。地震の規模はマグニチュード6.9程度で、死者は7千~1万人にも上ると伝えられています。葛飾区の中ではとくに亀有付近が大きな被害に見舞われました。
この地震のために東光寺にあった石造の地蔵も破壊されました。そこで住職たちが喜捨を募って新たに造ったのが現在の石造地蔵像です。堀切妙源寺の石造題目塔や細田神社の石造鳥居などと共に、未曾有の災害に対処した当寺の様子を今に伝えています。
上品寺の閻魔大王坐像
当寺は新義真言宗にして、八幡山来迎院という。
この閻魔堂に安置する閻魔大王坐像は、高さ206センチあり、かつて江戸十六閻魔の一つとして栄え、区内最大のものである。
閻魔大王は、地獄に住み18の将良と8万の獄卒を従え、死して地獄に落ちくる人間の生前の善悪を正し、罪あるものには、苦しみを与える冥王として信仰する人が多い。
当寺の閻魔は、江戸中期にもっとも盛んに信仰され、昭和47年に閻魔堂が新築され現在に至っている。
◆上平井天祖神社
社殿造營記念之碑
當天祖神社は天照皇大神春日大神八幡大神の参柱を祀り源賴朝の臣平清重葛西三郎の勤請と傳へ往古より近郷の尊崇極めて篤し神佛混合の世にありては醫王山瑠璃院東光寺別當たりその由縁を以て或は寶永年間同寺淨戒和尚土地六反弐畝歩の寄進あり或は昭和拾四年東京府道路線境内貫通に際し同寺若井賢淳和尚の配意により同寺所有地たりし現境内地との交換等その関係極めて浅からず昭和四拾参年五月葛飾區役所第五出張所地區内町会聨合会に於て明治百年記念事業として社殿御造營の儀發議せられ歴代氏子總代神明講社總代役員等並に氏子地區内各自治町会役員等をも包含し社殿造營奉賛会を結成しこの擧に出て今茲に規模宏大壮嚴なる社殿の完成を見る、この快擧の資たるや總てこれ氏子崇敬者の淨財にして敬神の赤誠機を得て顯現せられたりと云ふべし、爰に遷宮奉祝祭齋行にあたり社歴及経過を略記しこの大儀を千載に傳えんとす。
道祖神社
神楽殿
◆東小岩諏訪神社
続く。