一之江境川親水公園に入り、公園を南へ進む。
水神宮の後は細い路地を東へ進む。
◆今井街道しらさぎ通り
商店街♪
中は通らなかった。
◆一之江境川親水公園
一度来たことがある。
この写真はその時のもの。
2018/01/29 東葛西散歩 06 小江戸橋/新渡橋/一之江境川親水公園/日枝神社/光明寺/船堀スポーツ公園/船堀駅 - ovanの社会科見学
江戸時代の一之江境川は水深も深く、農耕のための用水ばかりでなく、舟の往来にも用いられました。一之江新田の記録の中に、川床があがって舟の通行にさしつかえるので、川浚いをしたいという願書があります。
一之江境川のそそぎ込む新川は、江戸川と中川を結ぶ水路で、江戸と行徳の間を往復した行徳船の航路としてもにぎわいました。行徳船は、江戸から成田詣でに行く人びとを多く運んだといわれ、にぎやかな船旅が想像されます。明治になってからの新川は、蒸気船の航路で、おおぜいの人や大量の物資輸送に大きな役割を果たしました。
この記念碑は、一之江境川の源流、利根川流域の意思を江戸川区の「江」の字にデザインしたものです。「江」は、松江の「江」一之江の「江」でもあり、私たちの町のシンボルにふさわしいものであります。この川がいつまでもこの地を訪れる人々に親しまれることを願ってやみません。
題字は江戸川区長中里喜一氏の揮毫によるものです。
ー之江境川親水公園園浴線の景観地区
ー之江境川親水公園沿線では、個性豊かで魅力あるまちなみを保全するとともに、水と緑豊かな良好な都市環境の創出を図るため、景観地区を定めました。景観地区内では、建築物について色彩や高さ、壁面位置の後退、敷地面積の最低限度などの建て方のルールや、屋外広告物の制限などを定めています。
また、親水公園沿線では、地域のみなさんが沿線の景観形成に協働して取り組んでいくものとして、建築のルールとあわせ、暮らし方·住まい方のルールである景観まちづくり運動を推進しています。
一之江境川親水公園地誌
河岸の水神宮
水に恵まれた江戸川区には、水神をまつる社や洞がたくさんあります。人びとは用水の安定、舟運の安全を祈願しました。
ここにまつられた水神宮は河岸の水神宮とよばれています。 一之江境川の東岸あたりを可岸とよんでいたからで、水神宮前の道路になっているところは近年まで水路があって、かつては境川を往来する舟の給溜まりでした。
この付近には染め物工場がいくつかあり、一之江境川が染め物に欠かせない清らかな水の流れを提供していたことを物語っています。
◆城東電車とトロリーバス
こちらも以前来たことがある。
2018/02/12 船堀散歩 02 城東電気軌道江戸川線跡/水神社/西一之江香取神社/しらさぎ通り/馬場八幡宮/一之江なかよし広場/法養寺 - ovanの社会科見学
城東電車は私営の路面電車で、明治44年(1911)3月、当時の本所区錦糸町と瑞江村大字上今井の間に敷設の許可がおり、大正6年(1917)12月に錦糸堀―小松川間が開通、大正10年1月には水神森―大島間が開通しました。そして、大正14年12月に東荒川―今井橋間が開通し、翌大正15年3月には小松川から西荒川までが延長されて、東荒川との間には連絡バスがはしりました。
昭和17年(1942)に東京市の市営になり、翌年の都制施行によって都電とよばれましたが、翌年27年に東荒川―今井橋間は廃止され、上野公園―今井間を葭った都内初のトロリーバスにかわりました。
この路線は、昭和43年から都営バス路線として今も運行されています。
城東電車は大正2年に創立し、江戸川線は大正14年に束荒川~今井間て開通しました。車両が一両で「マッチ箱電車」と呼ばれたり、発車合図のベルの音から「チンチン電車」と呼ばれ、昭和27年まで運行していました。
城東電車廃止の翌日より、無軌条電車(トロリーバス)が走り、昭和43年まての約17年間運行されていました。ト口リ ーバスはレールのない電車で、屋根にっいた集電装置で架線から電力を得て走っていました。
こちらでは「水神宮」とある。
<志茂の水神宮>
水に恵まれた江戸川区には、水神をまつる社や祠がたくさんあります。人びとは用水の安定、舟運(しゅううん)の安全を祈願しました。
志茂の水神宮は大場家のまつる屋敷神で、江戸時代にこの地に分家した際に本家から分霊したものと言います。
続く。