2021/10/20 葛西散歩 02 藤五郎橋/二之江行徳道石造道標/古川親水公園/蓮華寺/二之江コミュニティ会館/妙勝寺/古川けやき公園

細い路地をまだまだ南下。
古川親水公園からはこの細長い公園沿いに南西へ向かう。




◆藤五郎橋

ここから古川の水の流れが見える。












◆二之江行徳道石造道標



 行徳道は江戸と房総をつなぐ重要な街道です。いつごろできたかは定かではありませんが、少なくとも正保年間(1645~1648)の地図にはその名が記載されています。明治以後も主要な街道として引きつがれ、今日に至ります。
 高さ67cm、周長152cmの丸い自然石で作られた道標です。正面には「是ヨリ左り行徳道」とあり、行徳道への道筋を示したものと考えられます。もとは突留橋の東のたもとにありました。

いろいろブログなどを読んでみると、前の日記「宇田川家長屋門」の近くにあったみたい。
参考
東京都江戸川区の歴史 二之江の行徳石造道標












◆古川親水公園



 古川はその昔、船堀川と呼ばれていました。天正18年(1590)家康の江戸入府により、行徳の塩などを江戸に運ぶ重要な水路として利用されました。その後、寛永6年(1629)、現在の三角付近から東へ新たな水路が掘られ、水運の役月はそちらに移りました。この新たな水路と三角付近から西の船堀川を合わせて新川と呼ぶようになり、北関東や東北地方からの物資を運ぶ大動脈として江戸を支えました。これにより、三角付近から東の船堀川は古川と呼ばれるようになりました。
 時は明治となり、新川には蒸気船が就航するなど大いに賑わいました。一方、古川は地元の産物などを運ぶ身近な川として地域の生活を支えました。しかし、鉄道の発達による水運の衰退、戦後の経済成長にともなう都市化の波により、雑排水による汚濁の漂う水路と化しました。
 このような状況のもと、地域の人々と江戸川区は「古川の清流を再び取り戻そう」と決意し、昭和49年3月 (1974)全国初の親水公園として古川を難らせました。そして同年6月には地域の人々により「古川を愛する会」が結成され、古川は新たな歴史を歩むこととなりました。
 古川親水公園は「親水」という新しい概念に基づき川を再生させた全国初の先進的な事業として、国内はもとより海外からも高い評価を得ることとなり、歴史にその名を刻んでいます。




古川親水公園沿線地区 景観まちづくり
●古川親水公園は、昭和49年3月に完成した日本初の親水公園です。
●当時、古川は下水道の整備と共に埋め立てられる予定でしたが、 川を残してほしいという地域の声により、水の流れる公園として再生されました。
●親水公園の豊かなみどりや水辺は、 古川沿線にある保護樹や屋敷林、 寺社と調和し、 歴史や文化を感じる落ち着いたまち並みを形成しています。
●そこで江戸川区では、 今後も水とみどりが調和した落ち善きのある環境を維持するとともに、より一層大切にされる古川親水公園を目指し、 古川敦水公園沿線を景観地区に定めました。
●景観地区内では、 建築物の建て方 (色彩や高さ、 壁面の位置など) のルールとともに、 建築物の用途や屋外広告物設置の制限などを定めました。
●地域の方が一体となり、 古川親水公園の環境を守るだけではなく、 一人ひとりが工夫し取り組む暮らし方·住まい方のルールを守ることで、 古川親水公園をより魅力ある、 後世まで残したい景観として育てていきましょう。




みっけ♪











蓮華寺



 新義真言宗で海照山普門院と号し、本尊は聖観世音菩薩で行基の作といわれています。
 寺伝によると、むかしこの地に観音堂があって村人の信仰を集めていました。永享十年(1438)に栄源法印が不動明王を背負って遍歴したのち、永住するようになったので、人々が協力してお堂を建て、蓮華寺と称したのが始まりといわれています。
 建物は安政二年(1855)の地震大正6年津波関東大震災で全壊の厄災にあいましたが、昭和47年に鉄筋建築の現在の本堂が完成しました。
■虫除不動
 本堂に、不動明王立像が安置されています。昔から「虫除不動」といわれて、子どもの癪の虫に霊験あらたかであるとして、広く人々に信仰されました。


石塔など


六地蔵


山門










◆二之江コミュニティ会館

江戸川区の施設。
集会室など借りられるようだね。
二之江コミュニティ会館 江戸川区ホームページ











◆妙勝寺



 日蓮宗で本覚山成就院と号し、中山法華経寺の中本寺として14か寺の末寺を抱えていました。土地の人から「じょうじん」(成就院)とか「黒門寺」と呼ばれ親しまれています。
 寺伝によると、弘安七年(1284)堀江の浦(葛西沖)に漂着した難破船に残っていた少年を、二之江村の漁師が救い上げました。少年は平家の末裔で、中山法華経寺の二世日高上人の弟子となり、のちに成就院日尚と号して古川べりの妙見社のかたわらに小堂を建てました。これが本寺の始まりで、徳治二年(1307)3月のことといわれます。
■紙本墨書大曼荼羅(区登録有形文化財
 天保十四年(1843)三十二世日信の代に、小島(現・西葛西)に住む控井権右衛門が寺に寄進したと記録されています。日信はその鑑定を法華経寺百一世日道(~1850)に依頼し、二幅とも日高、日祐上人の真筆であると認めた証文が残っています。



 弘安七年四月(1284)下総国堀江の浦に漂着した難船にのこされていた童子を、当村二之江村漁師の五郎が救い上げて育てたところ、童子は後に中山法華経寺2世、日高上人の弟子となり、成就院日尚と号して当村古川べりの妙見社のそばに草庵をいとなみ、一寺を建立した。即ち開山の日尚上人で時は徳治二年(1307)春3月のことであった。中山法華経寺の末寺・葛西の融水頭であり、中本寺として14ヶ寺の末寺をかかえていたという記録がある。
 安置する宗祖大士像は中山法華経寺三世日佑上人がある夜、宗祖聖人が微妙な音声で読経している夢を見て、自ら夢中感得のお姿を彫って開眼供養をして日尚上人に与えられたものである。安政地震で倒壊したが、かつては水神宮があり、現在開山堂に祀られているが、この本尊は日尚上人が難船で漂流している時、深く水神に祈誓して波浪の難をのがれたので報恩の為、彫刻して日高上人に点眼を乞い、以後は一乗の法味をささげたものとされている。
 地元の有力な檀信徒の外護も代々続き、大木に囲まれた中にある。大伽藍、客殿は威風堂々として風格を備え、民間に開山上人の院号成就院がなまった”ジョウヂン”の呼名で親しまれている有数の名寺である。


開山堂


釈迦堂


鐘楼


山門











◆古川けやき公園











続く。