2021/10/29 平井・亀戸散歩 09 吾嬬神社/あづま児童遊園/福神橋/花王すみだ事業場/亀戸香取神社/香取神社前歩道橋

細い路地を西へ進み、明治通りへ出る。
明治を通りを南下、福神橋で旧川を渡り十間川を渡りさらに南下する。





◆吾嬬神社



往時は吾嬬の森八丁四方と云はれまた浮洲の森とも呼ばれこんもりと茂った森林の神域にあった名社である。草創は遠く景行天皇(12代)の頃にさかのぼり御祭神は弟橘媛ノ命を主神とし日本武尊ノ命を御合祀奉斉してあります。正治元年(1199)北條泰時が幕下の葛西領主遠山丹波守らに命じて神領三百貫を寄進し社殿を造営した。嘉元元年(1303)開創の真言宗宝蓮寺現亀戸4丁目を別当寺とし吾嬬大権現と称した。以後武家の尊崇があって安永3年(1774)大川橋の新設にあたり江戸から当社えの参道にあたるところから橋名を吾妻橋と称したともいい、明治21年に数村を合せて吾嬬村と称したのは時の府知事高崎五大の発案で社名をとったのである。

抑当社御神楠は昔時日本武ノ命東夷征伐の御時相模の国に御進向上総の国に到り給はんと御船に召されたるに海中にて暴風しきりに起り来て御船すでに危ふかりしに御后橘媛ノ命海神の心を知りて御身を海底に沈め給ひしかば忽海上おだやかに鎮りたり時に一つの島忽然と現れ到る心を知りて御船をば浮洲に着けさせ嶋にあがらせ給ひてあゝ吾妻恋しと宜ひしに俄かに東風吹き来りて橘媛ノ命の御召物海上に浮び磯部にたじ寄らせ給ひしかば尊大きに喜ばせ給ひ橘媛ノ命の御召物を則此浮洲に納め築山をきづき御廟となしたりこれ現在の御本殿の位置なり此時尊は食し給ひし楠の御箸を以て末代天下平安ならんには此箸忽ち根枝を生じし処葉茂り連理の男木女木となれり神代より二千有余年の星霜おし移ると云へ共尚梢えの色変らず栄えし処名樹も第二次大戦の災禍を被り焼け落ちて化石の如き姿で残った其一部を以て賽銭箱を造り御神前に永く保在される事となった以後御神徳に依る数々の奇瑞を現わし諸人の助けとなりたる神樹を惜みて明治維新百年祭を記念して元木に優る名樹に成長を祈念しつつ二本の若木が植えられた爾来十年余念願成就の兆し現れ日毎に葉茂り枝栄えたりこれこそ御神木の再生ならんと此由来を御世に伝えんと略してしるす也



抑当社御神木楠は昔時日本武命尊東夷征伐の御時、相模の國に御進向上の國に到り給はんと御船に召されたる海中にて暴風しきりに起り来て、御船危ふかしりて、御后橘媛命、海神の心を知りて、御身を海底に沈め給ひしかば忽海上おだやかに成りぬれ共御船を着くべき方も見えざれば尊甚だ愁わせ給ひしに不思儀にも西の方に一つの嶋忽然と現到る御船をば浮洲に着けさせ嶋にあがらせ給ひて、あー吾妻戀しと宣ひしに俄かに東風吹来りて橘媛命の御召物海上に浮び、磯辺にただ寄らせ給ひしかば尊大きに喜ばせ給ひ、橘媛命の御召物を則此浮洲に納め、築山をきづき瑞離を結び御廟となし、此時浮洲吾嬬大権現と崇め給ふ。海上船中の守護神たり尊神ここに食し給ひし楠の御箸を以て末代天下平安ならんには此箸二本ともに栄ふべしと宣ひて御手自ら御廟の東の方にささせ給ひしに、此御箸忽ち根枝を生じし処葉茂り相生の男木女木となれり神代より今に至りて梢えの色変らぬ萬代をこめし事宛然神業なり。其後民家の人々疫にあたり死する者多かりしに時の宮僧此御神木の葉を与えしに病苦を払ひ平癒せしより、諸人挙って貴び敬ひぬ。今こそ此御神木楠の葉を以って護符となして裁服するに如何なる難病にても奇瑞現れぬと云ふ事なし。凡二千有余年の星霜おし移ると云へ共神徳の変らざる事を伝ふべし共猶諸人の助けとならんと略してしるす也


福神稲荷大明神



当社は元亀戸4丁目地蔵川岸のほとりに鎮座ましましたが(1922)吾嬬神社旧社務所の位置に有縁の地とし御遷座もうしあげました。その後第二次世界大戦の災禍をうけ周囲家屋他草木に到る迄焼け尽きた中この社殿全く無被害の不思議な現象に奇跡なりと御神徳に人々は驚異の目を見張りました。吾嬬神社復興事業(1946)執行の折社殿を現在の場所へ再び御遷座申し上げ此処に吾嬬神社と共に庶民の守護神とて奉祭申し上げて居ります。尚この奇跡の社殿を出来る限り永く保存して次世代に伝え様と略して印す次第であります。



吾嬬の森碑



 この碑は、明和三年(1766)に儒学者山県大貮により建立されたと伝わります。「吾嬬の森」とは、吾嬬神社の代表的な呼び名で、江戸を代表する神社の森のひとつとして「葛西志」や「江戸名所図会」にも紹介されています。碑の内容は、地元に伝わる神社の来歴となっており、日本武尊の東征、尊の妃・弟橘媛の入水により海神の怒りを鎮めたこと、人々がこの神社の地を媛の墓所として伝承し、大切に残してきたことなどが刻まれています。「新編武蔵風土記稿」には、碑は神木の傍らに建てられていたと記されています。
 神木とは、墨田区登録文化財である「連理の樟」のことです。一つの根から二つの幹を見せる姿は、歌川広重の「江戸名所百景」にも描かれています。左の絵は広重の作品「江戸名所道化盡 吾嬬の森梅見」で、中央にひときわ高くそびえるのが「連理の樟」です。
 明治四十三年(1910)の大水や関東大震災東京大空襲などにより森は失われましたが、長く地域に根ざした伝承は、この碑を通じても垣間見ることができます。


狛犬



 この狛犬は比較的小型の一対ですが、世話人10名と奉納者22名もの名前が刻まれています。そのほとんどが築地小田原町中央区築地6・7丁目)や本船町地引河岸(中央区日本橋本町)など日本橋の商人であることから、海運・漁業関係者との繋がりをよく表しているといってよいでしょう。このことは吾嬬神社の由来に起因しています。日本の神話に、日本武尊命が現在の東京湾を舟で渡っている時に神の怒りに触れ、往生していた時に妻の弟橘媛が海に身を投げて海神の怒りを鎮めたという話があります。この媛の品が流れ着いた所がこの地だったということです。以来、海や川で働く人々の守護神として信仰されてきたわけです。また、昔は地盤沈下していなかったため、この社の裏の「吾嬬の森」と呼ばれた森が小山のように広がり、海上からの好目標だったことも崇敬を集めた理由のひとつでしょう。現在、鉄柵の奥にあるため近づくことはできませんが、かえって台座に刻まれた人名など、良い状態で保存されています。


石塔など

f:id:ovanrei:20211121113958j:plainf:id:ovanrei:20211121113955j:plainf:id:ovanrei:20211121114047j:plain


鳥居


参道入り口











◆あづま児童遊園











福神橋

下は北十間川














花王 すみだ事業場

中を見学したことがある。
2018/01/24 花王工場見学/NTTドコモ展示スクエア/江戸NOREN - ovanの社会科見学
2012/04/26 花王東京工場見学 - ovanの社会科見学











◆亀戸香取神社

以前来たことがある。



一、御祭神
 経津主神 相殿に武甕槌神大己貴神
 香取神社の御祭神経津主神は千早振る神代の昔天照大神のご命令により、鹿島大神と共に豊葦原瑞穂国(日本の国)の平定に手柄を立てられた威霊優れた国家鎮護の神として仰がれる我国武将の祖神であります。然も御本宮が神武天皇の御代に東国下総に鎮座されましたことは非常に意義あることで、日本国の守護を固めたことになり、更に農業に深い関係があり、国土開発に多大の功績のあった産業の祖神でもあります。
 故に大和朝廷におかれても殊に崇敬が篤く、中臣氏(後の藤原氏)は香取・鹿島両宮を氏神として忠誠を捧げ崇敬を尽くされたのであります。
一、御由緒
 当社の創立は天智天皇四年(665)、藤原鎌足公が東国下向の際、この亀の島に船を寄せられ、香取大神を勧請され太刀一振を納め、旅の安泰を祈り神徳を仰ぎ奉りましたのが創立の起因であります。
 天慶の昔平将門が乱を起こした時、追討使俵藤太秀郷が当社に参籠し戦勝を祈願して戦いに臨んだところ、目出度く乱を平らげたので神恩感謝の奉賽として弓矢を奉納、勝矢と命名されました。現在でもこの故事により勝矢祭が五月五日(武者行列)に執り行われれています。
 以来益々土民の崇敬が篤く郷土の守護神というばかりではなく、御神徳が四方に及びましたので、葛飾神社香取太神宮と称え奉るに至りました。
 元禄十年検地の説は改めて社寺の下附があり、徳川家の社寺帳にも載せられ古都古跡十二社の中にも数えられております。
一、御神徳
 前にも述べたように大神は天より国土平定に当られ、日本建国の礎を築かれた大功神であり、歴代の天皇をはじめ源頼朝徳川家康・秀忠・頼房等の武将の篤い崇敬を受け、又塚原卜伝千葉周作をはじめ多くの剣豪の崇敬も篤く、現代でも武道修業の人々は大神を祖神と崇めております。
最近ではスポーツ振興の神として広く氏子内外を問わず参拝されております。
 その他交通安全・家内安全・厄除・開運祈願等御神徳の随に毎日このような趣旨による御祈願を受け付けてご奉仕いたしております。



水神社/三峰神社/熊野神社



水神社
一、御祭神  水波能女神(みずはのめのかみ)
一、例祭日  6月15日
一、御由緒
  天明六年(1787)香取神社13代神職香取正武がその年の洪水を記念し災害防止氏子住民の安体を祈願し石祠をもって建設した。江戸名所絵図にもみえる。

三峯神社
一、御祭神  國常立命伊弉諾尊伊弉冊尊日本武尊
一、例祭日  1月19日
一、御由緒
  享保年間(1716~1735)の創立。有名な亀戸梅屋敷園主 安藤喜右衛門が園内にお祀りしていたのを明治の末当、香取神社に移した。
  火防・盗難除の御利益あらたかで梅屋敷講を受継いだ亀戸三峯講の多くの崇敬者もふえ近年本社参詣も盛んである。

熊野神社
一、御祭神  家津御子大神ほか天神地祇十三社
一、例祭日  8月10日
一、御由緒
  熊野の神の総本社で曾ては「蟻の熊野詣で」の諺通り貴賎老男女をとわず全国から参詣者があつまり信仰絶大にして盛況を極めた。
  当社は元梅屋敷隣りの北の方に位し、熊野入りと称して亀戸村の水利を司どっていた。
  大正13年北十間川通りが拡張されるに伴い香取神社の境内に移転鎮祭した。


恵比寿神/大國神



福神社
一、御祭神  事代主神恵比寿神
       大国主神大国主神
一、例祭日  10月15日
一、御由緒
  元々御本社の相殿に奉賽されていた大國主神と併せて明治年間に至り七福神の内の恵比須大国神として境内に鎮祭した。
  事代主神は大國主神の御子神である。正月ともなると亀戸七福神の内恵比須大国様として多くの参詣を得ている。
一、御神徳  富徳円満・商売繁昌の守護神として御神徳あらたかである。


稲足神社



稲足神社
一、御祭神  面足神・惶根神・相殿に金山毘古神・宇賀御魂神
一、例祭日  九月十五日
一、御由緒  寛文九年(1670)創立
  明治以前は普門院の主管であったが、明治元年香取神社神職の奉仕となる。
  明治35年香取神社隣接地に所在していたが境内に移転。
  琴平神社は宝暦年間香取12代神職香取政幸の鎮祭する処で稲荷神社は元渡辺稲荷神社と称え、明治12年当社に合祀。
一、御神徳  供に産業発展・家運隆昌の御神徳あらたかである。


天祖神社



天祖神社(入神明宮(いりのしんめいぐう)
一、御祭神  天照大御神伊勢神宮の御内宮)
一、例祭日  九月十五日
一、御由緒  昭和六十三年の香取神社改築に伴い移転され境内神社として祀られるようになった。
       当神社の創立は江東区内では最も古く口伝によるとこの地が四辺海の囲まれていた頃漁船がしばしば風浪の危難に会う毎に伊勢の大神を祈念すると災害が免かれたという事で太平榎塚に小祠を
       営み鎮祭されたという。江戸名所図絵に書かれている神明宮は当社である。
       当境内から多量の硾(いわ)が出土(明治四十年)し考古学的にも有益な資料とみることができる。現在香取神社にて保管。


亀戸大根の碑


紙本淡彩道祖神祭図 歌川広重筆 一幅

 道祖神荼図は、木紙を掛け軸に表装したものてす。本紙は縦33.6cm、横40.6cm。表装は縦158.0cm、横47.0cmです。
 香取神社道祖神は、毎年正月一四日、氏子の子供たちか宝船をかつぎ、亀戸から両国の辺りまて練り歩いたものて、享保のころから始まり、明治初期まで続きました。その光景は「江戸名所図会』の挿し絵に載せられ、「東都歳事記」にも記載されています。本図は人物や宝船を墨で描き、朱、青て淡彩を施しています。作者は浮世絵師・歌川広重(1797~1858)で、嘉永五年(1852)以降、広重の円熟期に描かれた作品とみられます。
 本図は、江戸時代の香取神社の古い行事の様子をよく伝え、作者が著名な広重てあること、また戦災を免れて区内に伝えられたことなどから、貴重な作品といえます。


江戸・東京の農業 亀戸大根

 このあたりで大根づくりが始まったのは、記録によると文久年間(1861~64)の頃とされ、当香取神社周辺が栽培の中心地で、以来、明治時代にかけて盛んに栽培されてきました。
 当地は荒川水系によってできた肥沃な粘土質土壌であったため、肉質が緻密で白く冴えて肌の大根づくりに大変適していました。
 亀戸大根は、根が30cm程度の短い大根で、先がクサビ状にとがっているのが特長。明治の頃は「おかめ大根」とか「お多福大根」といわれましたが、大正初期になって産地の名をつけて「亀戸大根」と呼ばれるようになりました。しかし宅地化が進んだ大正時代の終り頃から産地は江戸川区小岩や葛飾高砂などに移っていきました。
 秋から冬にかけてタネをまいて早春に収穫となる亀戸大根は、当時は他に大根などの全くない時期で、新鮮な野菜の出始めの頃なので根も葉も共に浅漬けにして美味しいことから、江戸っ子から大いに重宝がられました。


楽殿


鳥居











香取神社前歩道橋

下は明治通り





歩道橋から亀戸香取神社











続く。