2021/11/12 江東橋散歩 01 錦糸町駅/ピアきんしちょう/伊藤左千夫牧舎兼住居跡/錦糸町駅南口機械式地下自転車駐車場/鎮守稲荷大明神/総武線高架

お休み♪
錦糸町駅南側エリアを散策。








総武線首都高速7号小松川線に挟まれたエリアを西へ向かって歩く。




錦糸町駅

スタートの総武線錦糸町駅
















◆ピアきんしちょう

商店街♪














伊藤左千夫牧舎兼住居跡

よき日には 庭にゆさぶり 雨の日は 家とよもして 児等が遊ぶも 佐千夫



 この地には、明治時代の歌人で小説家としても活躍した伊藤左千夫の牧舎と住居がありました。左千夫、本名幸次郎は、元治元年(1864)八月十八日に上総国武射郡殿台村(現在の千葉県山武市)の農家の4男として生まれました。明治十八年(1885)から、東京や神奈川の七か所の牧場に勤めて酪農の知識を深めました。明治二十二年二十五歳のとき本所茅場町三丁目18番地(現在地・錦糸町駅南口)の牧舎と乳牛3頭を購入し、四畳半一間と土間のついた仮小屋を建て。乳牛改良社(茅の舎、デポン舎とも称した)を開業しました。随想「家庭小言」には開業当時の様子について。毎日18時間の労働をしたことや、同業者の中で第一の勤勉家という評を得たことなどが書かれています。
 左千夫が歌の世界に入ったのは、明治26年ごろ同業の伊藤並根から茶道や和歌を学んだことがきっかけでした。明治33年37歳のころには正岡子規の門下生となり、根岸派の有力な歌人として多くの作品を発表しました。また、子規没後の明治三十六年には、機関誌「馬酔木」を創刊。 明治41年には後継誌「阿羅々木」(のちに『アララギ』と改題)を創刊して根岸派、アララギ派の中心となり、島木赤彦、斎藤茂吉など多くの歌人を輩出しました。小説では処女作でもある『野菊の墓』が知られています。この作品は政夫と民子の青春、悲運を描き、近代文学の名作として読み継がれています。
 この地は低地で湿地が多く、水害がたびたび発生しました。写生文『水害維録』には、明治四十三年八月十二日の水害時における家族や乳牛の避難といった当時の苦労が記されています。経営の問題から、明治四十五年に南葛飾郡大島町(現在の江東区大島) に牧舎を移し、程なくして茶室「唯真閣」(現在は千葉県山武市に移築)を残して家族とともに転居しました。大正二年(1813)七月三十日五十歳で没しました
隣に立つ「よき日には」の碑は、昭和五十八年(1983)に「伊藤左千夫記念会」が建てたものです。刻まれている歌は明治四十一年十月『阿羅々木第一巻第一読』の「心の動き二」に掲載した一首で、家で遊ぶ子供たちの様子を詠んだ作品です。親として子供に寄せる左千夫の思いがうかがわれます。














錦糸町駅南口機械式地下自転車駐車場



屋根の上のオブジェ



動物なのかな?













◆鎮守稲荷大明神













総武線高架














続く。