2021/11/12 江東橋散歩 02 小諸藩牧野屋敷大名志茂屋敷跡/江東橋/勝海舟居住の地/五柱稲荷神社/浅香山部屋/松の湯

前の日記同様西へ向かって歩く。




小諸藩牧野屋敷大名志茂屋敷跡



google mapの場所は上の写真のところあたり。
現地には説明版など見当たらなかった。



ついでに古地図マップでも調べてみたが・・・・・。
お屋敷跡があったとは思えないなあ。
何かの間違いか?












◆江東橋

下は大横川親水公園。





京葉道路と江東橋の歴史



 国道14号( 京葉街道 )は江戸時代庶民の信仰と行楽を兼ねた成田山新勝寺の参詣道として発達しました。 成田参詣は江戸から二・三泊の手頃なコースで、平坦で水陸の変化があり、背後に芝山仁王尊や香取、鹿島の名社寺、潮来などの歓楽地を控え、街道は往来する人馬でにぎわいました。また、 この道は水戸佐倉道と称し水戸街道の新宿から右へ入り、 小岩、市川、 八幡と進む道と 日本橋小網町から水路で大川(隅田川)を下り、 行徳から陸路を八幡へ向かう道がありました。 その後明治時代に入り、 浅草橋から両国橋を渡り小岩、市川を経由して向かう道を千葉街道と称するようになりました。これが現在の京葉道路です。 この路線にかかる旧江東橋は 東関東に水運の大動脈として 江戸や東京の経済と市民生活を支えてきた小名木川の支川、 大横川を跨いで大正15年に架替えられたものです。












勝海舟居住の地



 勝海舟(麟太郎)は、文政六年(1823)に両国にあった父惟寅(これとら)の実家、男谷(おたに)氏の屋敷(現区立両国公園)で誕生しました。その後、父母とともに本所の旗本屋敷を転々としましたが、天保二年(1831)頃ここにあった岡野氏の屋敷に落ち着き、10代後半までの多感な時期を過ごしたといわれています。麟太郎は後に幕臣として出世を果たし、激動の時代に活躍の場を広げてゆきます。
 麟太郎が世話になった岡野氏は、後北条氏の旧臣板部岡江雪(いたべおかこうせつ)を祖とする旗本で、文政九年十二月の屋敷替を経て、同10年3月ごろ当地に移住していました。家の経営費を捻出するための屋敷替であったようで、旧知行所に伝わる資料によれば、旧居を担保に数百両の金を用立て、代わりに旧居の半分ほどしかない屋敷に移住していたようです。幕府創業期より続く由緒ある武家とはいえ、岡野氏の家計は大変逼迫(ひっぱく)していたのです。このため、幕末維新の時代ともなれば家来を召し抱えるのも容易でなく、一人分の給与さえ支払えぬ事態に陥ります。
 正月に餅をつく金さえなかったという貧しい下級旗本の家に生まれた麟太郎は、こうした武家凋落(ちょうらく)の厳しい時代に成長し、大志を抱いて力強く立身していったのです。












◆五柱稲荷神社


勝海舟揺籃の地碑

ほかに説明版などが見当たらず、「揺籃」の意味も分からず・・・。
揺籃(ようらん)とはゆりかごのこと。
揺籃の地とは、出生地を意味するとのこと。
ここでそだったということかな?
調べてもあまり信頼できる情報がないのでご存じの方がいらっしゃったら教えてください。
(o*。_。)oペコッ


石塔など













浅香山部屋

浅香山部屋(あさかやまべや)は、伊勢ヶ濱一門に所属する相撲部屋。 』
浅香山部屋 - Wikipedia


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◆松の湯

銭湯♪













続く。