2021/11/17 神田散歩 03 美土代町/新御茶ノ水駅・小川町駅/日大理工学部/東京復活大聖堂「ニコライ堂」/お茶の水ソラシティ/御茶ノ水駅

本郷通りを北上し御茶ノ水駅でゴール。





◆美土代町

 江戸時代、この地域一帯には、身分の高い武士たちの屋敷が立ち並んでいました。とくに元禄(げんろく)年間(1688年~1704年)には、五代将軍徳川綱吉(つなよし)の側近として活躍した柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が屋敷を構えていました。そのほか、老中(ろうじゅう)や若年寄(わかどしより)を輩出した由緒正しい武家の屋敷が軒を連ねていたこともはっきりしています。
 一方、この界隈(かいわい)には武家屋敷だけでなく、商人や職人が住む町屋もありました。なかには、商売上手なアイデアマンも少なくなかったようで、湯女(ゆな)を置くことで大繁盛した「丹前風呂(たんぜんぶろ)」が始まったのも、この周辺からだったのです。江戸時代の美土代町(みとしろちょう)周辺は重要な武家屋敷地であると同時に、新たな風俗・流行を生み出すこともできる、懐(ふところ)の深い町だったといえるでしょう。
 そんな町に美土代という名がついたのは明治五年(1872年)のことです。かつて、この周辺に伊勢神宮(いせじんぐう)にささげるための稲(初穂(はつほ))を育てる水田「みとしろ」があった故事(こじ)にちなんで生まれた名前でした。ちなみに、神田(かんだ)という名前も同じ故事に従ってつけられたとされています。
 明治期の美土代町は、一丁目~四丁目まである広大な町域をもっていましたが、時代が下るにしたがって、その範囲を縮小していきます。現在の千代田区神田美土代町が誕生したのは昭和二十二年(1947年)のことでした。












新御茶ノ水駅小川町駅

東京メトロの駅。


イルミネーション

夜に来てみたい!



アマビエさん。











◆日大理工学部

世間を騒がしている大学だね・・・・。












◆東京復活大聖堂「ニコライ堂



何度か来たことがあるが、ちゃんと日記にしているのはこのページだけだなあ。
2017/08/29 01 御茶ノ水散歩 01 駿河台東部/紅梅坂/ニコライ堂/名前のわからない社 - ovanの社会科見学











お茶の水ソラシティ



湯島聖堂/昌平坂と淡路坂

湯島聖堂
徳川五代将軍綱吉は儒学の振興を図るため、元禄3年(1690) 上野の忍岡により聖堂を移転しました。寛政9年(1797)には幕府直轄学校として昌平坂学問所と改称され、その後敷地面積を大きく拡大しました。明治維新を迎えると、日本で初めての博物館や東京師範学校などが置かれ、近代教育発祥の地となりました。大正11年(1922)国の史跡に指定されましたが、翌年の関東大震災により入徳門と水屋を残して全て焼失しました。昭和10年(1935)伊東忠太の設計により鉄筋コンクリート造りで現在の湯島聖堂が再建されました。

昌平坂と淡路坂
神田川を挟んで2つの坂道があります。北側(文京区)の坂は、昌平坂学問所に因んで「昌平坂」と呼ばれ、江戸時代の浮世絵にも数多く描かれています。南側(千代田区)の坂は、江戸時代、坂上の西側に鈴木淡路守の屋敷があったことから、「淡路坂」と呼ばれています。淡路坂沿いの当敷地内の石垣は、岩崎禰之助邸があった明治時代に造られた神奈川真鶴産の小松石の石垣を再利用したものです。「切り込みハギ」と呼ばれる積み方や「江戸切り」と呼ばれる石垣角部のノミ加工など、近代城郭で発展した石垣構築技法を見ることができます。

この歴史案内板の煉瓦は岩崎猟之助邸擁壁の煉瓦を保存 - 再利用したものです。



蜀山人終焉の地/岩崎彌之助邸跡



蜀山人終焉の地
大田蜀山人は、名は覃(ふかし)、通称直次郎. 七左衛門、 南畝. 四方山人などの号を称しました。寛延2年(1749)に江戸の牛込に生まれ、勘定所の役人として支配勘定まで登用され、大坂銅座、長崎奉行所への赴任などの役目を歴任しました。また幼少期から学問を好み、文筆に優れた才能を発揮しました。明和4年(1767) に狂詩集「寝惚先生文集」が評判となり、寛政初年までは「万載狂歌集」、酒落本「甲駅新話」を発表し、のちに随筆「半日閑話」、「一話一言」を執筆しました。文化9年(1812) に当地に移り住み、文政6年(1823) に没するまで過ごしています。

岩崎彌之助邸跡
岩崎彌之助は嘉永4年(1851)土佐国に生まれ、明治7年(1874) 後藤象二郎の長女早苗との結婚を機に、当地の洋館に住みました。明治18年(1885)に三菱第二代社長に就任し、三菱社を設立して本社を当地に置きました。彌之助は、鉱業、造船を中心に、銀行、保険、倉庫業にも力を注ぎ、経営の多角化を行いました。また丸の内や三崎町の官有地を買い取り、それぞれにオフィス街や繁華街を計画しました。彌之助は文化.芸術を好み、収集した図書を母体とした静嘉堂文庫を当地で設立し、東洋固有の文化財の収集を行いました。

この歴史案内板の煉瓦は岩崎彌之助邸擁壁の煉瓦を保存 、再利用したものです。












御茶ノ水

まだ工事中だね・・・。












亀戸線散歩へ続く。