松代橋まで西へ進んだ後は、横十間川沿いの道を北上。
◆越中島線高架
コチラをくぐって線路の反対側(西側)へ
◆おいてけ堀跡
一度来たことがある。
2018/03/02 大島散歩 13 堅川河川敷公園/ 旧千葉街道/堅川第一公園/おいてけ堀跡/亀戸駅 - ovanの社会科見学
「おいてけ堀」は、墨田区両国付近から江東区亀戸あたりにかけて残る伝説で、本所七不思議のひとつです。釣人が帰る途中、堀から「おいてけ、おいてけ」という声が聞こえ、獲物を置いて帰らないと、いつのまにかその獲物がなくなってしまうというものです。天明七年(1787)刊の黄表紙『亀山人家妖(きさんじんいえのばけもの)』(朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)作・北尾重政画)に取り上げられていることから、18世紀には伝承として成立していたようです。
おいてけ堀の場所には諸説あります。本所や亀戸あたりでは、屋敷地を少し離れると田畑も多く、池や堀の周りには、夜になると人気のない寂しい場所があちらこちらにあり、こうした伝承が生まれたと考えられます。
明治四二年(1909)作成の一万分の一の地形図「深川」には、亀戸町字横川と清水の間(現在の第三亀戸中学付近)に堀「オイテケ堀」と記されています。同四三年刊の「東京近郊名所図会」其六では、この「オイテケ堀」を実地調査し、四方に樹木はなく釣堀のようになっていること、地元でおいてけ堀と呼ばれている場所が一か所だけではないことなどを記載しています。
「おいてけ堀」は農村から町場へと変わっていく亀戸の面影を知る説話として伝えられ、近代以降も、錦絵・講談・落語・映画・小説などの題材とされています。
わが国におけるドラム缶 の製造は、昭和4年日本石油(株)下松製油所で自家用として生産したことに始まるといわれているが、その後昭和7年3月、先進的な事業家本野吉彦が合資会社日本ドラム罐製作所を設立し、この地に我が国初のドラム缶製造専門工場を建設し、商業生産を開始した。スチール製のドラム缶がアメリカで発明されてから僅かに30年後のことである。
以後長い間この工場はわが国ドラム缶製造の中心として活躍したが、日本経済の高度成長に伴う需要量の増大と技術の進歩に対応するためには新立地による新鋭工場の建設が不可欠となり、当時のわが国最初のドラム缶工場はその使命を終え昭和48年6月閉鎖されるに至った。
日本ドラム罐製造所は、昭和49年10月製鐵ドラム株式会社を合併し日鐵ドラム株式會社として新たな出発をしたが、平成6年、その発足20周年を迎えるあたり、ドラム缶製造工場発祥の場であるこの地に, 日鐵NDタワーを 含む“NDプラザ”をその記念として建設した。
◆松代橋
下は横十間川。
◆都立墨東病院
続く。